「いいか、これからは俺が教えた通りに喋るんだぞ」
一人の男が、自らの手元に語りかけていた。
太陽の光が満足に届かない地面の下で、全身を絵の具まみれにした男が、まだ乾ききっていない石の壁を眺めながら一人、佇んでいる。
そう、男は一人だった。
しかし男は、まるで目の前に誰かがいるかのように、ぽつぽつと語りかけていた。
「そうすればきっと、お前の望むものがいつか、手に入るからな」
男は静かに、手に持っていたものを壁から突き出ている石の出っ張りの上に置く。
そうすれば、ただの平べったい石が後ろの壁に描かれた赤い絵も相まって、中央に置かれたものを祀る祭壇のように見えなくもない。
男はそれを見ていた。まるで、名残惜しむように。
「俺は、お前の願いを叶えてやる事は出来なかったが……きっと。次にお前を手にする奴が、それをやり遂げてくれるさ」
そう語りかけた後、男の脳内には、男の言葉に返事をする生物が思い描かれる。
それはもちろん、男の妄想だった。むしろ願望であった。
現実には男の声に答える者は誰もいなかったが。それでも男は願っていた。
この言葉が、この願いが、彼の者に届いている事を。
「……すまないな」
最後に一言、そうやって誰かに謝った男は。
まるで何かを振り切る様に踵を返し、小さな地下の部屋から抜け出した。
「これでよし、っと」
地下から抜け出た男は、その入口に最後の絵を描いた。
部屋の中に描いた大きな絵と同じ形の、しかしサイズだけはとても小さな絵であった。
崩れかけた遺跡の内側の壁とはいえ、時が経てばこの絵は風化するだろう。
もしかしたら、完全に見えなくなるかもしれない。
それでも男は描いた。
自分が成し得なかった思いを、一抹の希望に託し、未来へと繋ぐために。
「……終わったの?」
「ああ、終わったよ」
描き終え立ち上がった所に、後ろから声をかけられる。
振り返れば、男にとって世界一大切な人が、憂いを帯びた表情でこちらを見つめていた。
そう、彼女は男にとって、何にも替え難い最も尊い存在であった。
だから男は、選べなかった。
選べなかったから、託したのだ。
「あいつはお前の……いや、俺たちの命の恩人だ。だからこそ、次こそは、幸せになって貰いたい……結局俺は、あいつの願いを叶えてやる事が出来なかったんだから」
「そんな事無いわ。あなたはあの子の願いを叶える手伝いをするんでしょう?それなのにあなたがそんな弱気になっていたら、あの子が可哀想だわ」
「……ああ、そうだな、そうだよな」
男は自分の身体を見下ろした。その手に持つ筆も身体も、絵の具で真っ赤に染まっている。
それは、男が戦った証明だった。
男の武器は、今その身にまとわりつかせているそれそのものだからだ。
「行こう、まだまだ絵を描かなければならない。あいつのために、な」
「ええ」
桜色の髪を翻し、先に彼女が立って歩く。
その後についていく、前に男は、一度だけ振り返った。
「あいつ」が眠る、森に埋もれる小さな遺跡を。
「今までありがとな……どうか、次に目覚める時には、幸せになってくれよ、ひーちゃん……いや、『女神様』」
男はもう、振り返らなかった。
この後、数十年もの間この古びた小さな遺跡に隠された地下室が発見される事は無かった。
隠された入口の隅に描かれた赤き絵は擦れ、余程注意して見てみなければ目にも止まらないであろう薄さとなっていた。
ほとんど崩れたその遺跡は、その内に赤き願いを抱いて、深い森の中静かに佇み続ける。
いずれ訪れるであろう、緋の輝きに魅せられた希望を待ち望みながら。
そして。
運命はやってきた。
序章 緋の希望
11/01/23
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