ハル・フロウムは絵を描くのが好きだった。
年の離れた姉に育てられた幼い頃から、ハルの親友は真っ白な画用紙と数本の色鉛筆だった。大きくなってからは絵の具も仲間に入った。姉の手伝いをしながら、暇さえあれば色んな絵を描いてきたハルは、とうとう故郷を飛び出して旅人となった。
そうして画材と旅道具を背負ったハルは、それから数年経った今もたどり着く景色を絵に描きとめながら旅を続けている。
ハルがこの木々が生い茂る緑深い森に訪れたのは、近くの町でこの辺りに遺跡があると聞いたからだった。何でも非常に小さな遺跡で、遺跡荒らしも入らないようなひっそりとしたものらしい。それなら情緒溢れる絵がのんびり描けそうだと、手書きの地図を頼りに道なき道を進んでいるところだ。
「しかし……本当にまったく人の手が入ってない森だな。遺跡の話、嘘じゃないよな?」
草を掻き分けながら、ハルは思わず一人呟いていた。大雑把に描かれた地図を見て、目的地がもうすぐだということを確認する。
急ぐ旅ではない、もし何にも無かったらこの森の景色でも描いて帰ろうと、額の汗をぬぐうためにハルは天を仰いだ。その際自分の前髪がチラと視界に入って、思わず眉を寄せてしまう。
ハルの目には、太陽の光に透けた綺麗な桜色が見えた。正真正銘、ハルの髪色である。男なのに生まれつき桜色の髪をしているハルは、自分の髪色が少々コンプレックスであった。もちろんしょっちゅうからかわれるからである。
親がいないので実際のところは分からないが、自分の名前も絶対にこの髪の色から取ったんだとハルは確信している。生まれ故郷には、春に自分の髪と同じ色の花の木が咲き乱れるのだ。生まれ持ったものは今更何を言っても仕方ないが、姉は普通の黒髪なのにどうして、と過去何度思った事か。
不毛なことを考えている暇は無い。首を軽く振ったハルは、辺りの森の緑と同じ色の瞳を進行方向へ向けた。気のせいか、草木が少しだけまばらになったような気がする。目的地は、おそらくもうすぐだ。
荷物を背負い直したハルは気を取り直して再び歩き出した。そうして石造りの小さな建物を発見したのは、それからいくらも経たない頃だった。
話に聞いていたとおり、こぢんまりとした遺跡だった。もし遺跡を探してここに来なければそれを遺跡と認識する事は無かったかもしれない。それほど目立たなくて、森の中に埋もれたひっそりとした遺跡だった。太い蔓が幾重にも巻きつき、ほとんど崩れかかったその外見はほとんど森と同化していたのだった。
「ここかよ……まあ確かに遺跡と言えば遺跡だけど」
これなら素直に周りの森でも書いた方がマシかもしれない。ちょっとだけそう思ったハルだったが、せっかくここまで来たのだからと遺跡に近づいてみた。
小さな入り口があるが、しかし肝心の部屋は天井や壁がすべて崩れているので最早入り口としての意味を成してはいなかった。ちょっとした一軒家だってこの倍以上はあるだろう。それぐらい小さな部屋だった。遺跡にはこの部屋ひとつしかないようだった。
「ここまで来たら遺跡っつーよりただの岩の塊だな、はあ……こんなんじゃ迫力ある遺跡なんて描けやしねーな……ん?」
部屋の真ん中に立ってため息をついたハルは、その時視界の端に何かを見つけた。何の変哲も無い景色だが、何かが引っかかる。それぐらい些細な発見だった。
「何だ?」
ハルはもう一度部屋を見渡した。するとやはり何か違和感を覚えた。注意深く見渡したハルは、やがて見つけることが出来た。ハルの目に止まったのは、少しだけ残った壁の根元に描かれていた、落書きだったのだ。これを発見できたのが奇跡だと思えるぐらい、微かに絵の具がこびりついているだけの小さな落書きだった。
「この絵は何だ?消えかかってるけど、この遺跡にしては真新しいな……」
遺跡自体はおそらく数百年前のものだろう。しかしこの落書きはそんなに時が経ったものには見えなかった。赤く描かれたそれは、生き物を象っているように見えた。そう、何か、トカゲのような、それにしては羽根が生えているような。いずれにしても消えかかっているそれから、何が描かれているのか当てる事は難しそうだった。
それなのに。ハルは妙な既視感を覚えた。こんな、何でもない昔の落書きなのに、これをどこかで見た事があるような、そんな気がしたのだ。
妙な気持ちに陥りながらふとハルが壁に触れれば、壁の一部が軽い力であったにもかかわらずにガコンと外れた。
「あ?」
声を上げた一瞬後であった。ハルの足元が、大きな音を立てて紛失したのは。
「っはあああああ?!」
瓦礫と共に地面よりも深いところへ転がり落ちたハルは、あちこち身体をぶつけながらも何とか無事であった。ちょっと痣が出来たりするかもしれないが、まあそれぐらいである。大きな怪我が無かったのは不幸中の幸いといった所か。
肉体的にも精神的にもダメージを食らったハルは、3mほど上に見える青い空をしばらく寝転がったまま呆然と見上げた。そうしてショックから回復しだしたハルの心の中に芽生えた感情はひとつだけである。憤りであった。
「な、何なんだよこの古典的な罠は!大体罠ならもっと目立つ仕掛けを置けばいいだろ、あんなに隅のほうに隠れるように置いたら罠の意味がねえだろうが!ふざけんな阿呆か!それに引っかかった俺はさらに阿呆って訳かちくしょう!」
その憤りは罠を仕掛けた誰かへというよりもむしろ自分に対してのものだった。今時こんな落とし穴に引っかかってしまった自分が恥かしかったのだ。今ほど一人旅でよかったと思った事は無いかもしれない。ひとしきり身悶えたハルは、しばらくしてからようやく起き上がって、辺りを見回した。
よく見ればハルを取り囲んでいるのは土の壁ではなく、石壁であった。地面の中にあったためかそれほど崩れてはいなかったが、明らかに表の小さな遺跡を形作っているものと同じものである。つまりここは遺跡の内部と言っていいだろう。
「あんなみすぼらしい遺跡にこんな空間が、ねえ……」
もしかしたら今の落とし穴は罠ではなく、隠し扉的な存在だったのだろうか。そんな事を思いながら壁に手を触れていたハルは、そこに何かを見つけた。
暗がりの中、真上からこぼれる太陽の光にかすかに照らされようやく見えた、小さな出っ張り。その出っ張りの上に、ひとつのまあるい玉が乗っかっていたのだ。
「何だ、これ」
その色は闇の中でもよく分かった、赤色だった。わずかな光が当たるだけだというのに、まるで燃え上がる寸前のような真っ赤な玉だった。大きさはちょうどハルの手のひらと同じぐらいだろうか、ただの石を平べったくしたようなお粗末な祭壇らしき出っ張りにちょこんと乗っている。お供え物は何も無かった。その代わりに、奥の壁に先ほど地上で見たあの赤い落書きが部屋を覆い尽くすぐらいの大きさで描かれていた。
「へえ、綺麗だな。こんな寂れた遺跡にこんなものが残ってるなんてなあ」
ものめずらしく感じたハルは何気なく、本当に何気なくその赤い玉に手を伸ばしていた。目の前に不思議な物体があるので、持ち上げて近くで見てみようかなと、そういう風に軽く考えての行動だった。
その時のハルは、まさかこの時の自分の行為がこれほどまでに自分の人生を大きく変える事になろうとは、露ほども思っていなかった。
ただ真っ白な気持ちで、純粋な好奇心から手を伸ばした、その自分の行動が。
平凡な一旅人だった自分のモノクロな人生が、音を立ててああも鮮やかに変わるとは。
何も知らないハルが、その玉に触れた、途端。
遺跡は、光に包まれた。
声を上げる暇も無く光の渦に飲み込まれたハルは、何がなんだか分からないままその場に立ち尽くすことしか出来なかった。強く瞼を閉じていても防ぎきることが出来ないほどの眩い光であった。最早今のハルに感じることが出来るのはこの強烈な光と、自然と手の中で握り締めていたあの赤い玉だけだ。
その赤い玉を意識した瞬間、ハルの頭の中に文章が流れ込んできた。声を介する言葉ではなかった。まるでたった今自分が考えたことのようにハルの中に浮かび上がった文章は、しかし確実にハルに語りかけていた。
求めよ
音を持たないその文章は、どこまでも無機質であった。
求めよ
しかしハルは、勝手に消えては勝手に浮かび上がってくるその文章に、何かを感じた。
私を求めよ
求めよ?一体何を求めるというんだ。
私は力
力?
私は汝を守る者
守る者?
汝の望む姿の 私を求めよ
俺の、望む姿?
私を 求めよ
それは確かに文章だった。誰の声も持たないただハルの頭の中に浮かび上がる文字列であった。
しかしハルは、その時「声」を聞いた気がした。耳を介する事無くハルの頭の中を通り抜け、ハルの心に直接語りかけてくる「声」を聞いたのだ。気のせいだったのか、それとも確かに聞いたのか。それはもう分からないが。
深い森、古びた遺跡、そしてあの赤い落書きが走馬灯のように頭の中を通り過ぎていく中。
「声」を感じたハルが、その姿を頭の中でとっさに思い浮かべた瞬間。
光は、終わった。
「……?」
ハルが気付いた時には、辺り一面を照らしていた光は消えうせていた。頭に浮かんでいた文章がそれ以上語りかけてこなくなり、おそるおそる目を開けてみて気がついた。さっきまでの出来事が嘘だったかのように遺跡内は静まり返っている。
いや、異変は確実に起こっていた。呆然と立ち尽くしていたハルがまず気がついたことは、己以外の気配がこの遺跡内に存在する事であった。
そんなはずはない、この狭い遺跡内にはさっきまで確かにハルしか存在していなかったのだから。しかしいくら否定しようとしても背後の気配は消え失せなかった。少々恐ろしかったが、思いきってハルは後ろを振り返った。
果たしてそこにいたのは、静かに目を閉じたまま立ちつくす女であった。人の気配というものが存在していなければハルは遺跡内に落ちる影と勘違いしたであろう、それほど女は全身真っ黒だった。尻ぐらいまで真っ直ぐ伸びる髪もその身に纏う服も全てが黒かった。うっかり、派手じゃなくていいな、と桜色の髪を持つハルは思った。
驚きながらも女へ身体を向き直らせたハルは、女に声をかけるべきかどうか迷う。それともこんなさびれた遺跡にいきなり現れたとてつもなく怪しい人間はいなかった事にして、今すぐここから逃げ出すべきだろうか。
迷っている時間はそんなに長くは無かった。しかしその間に事態は大きく動いた。立ったままピクリとも動かなかった女が、パチッと眼を開けたのだ。
その時に見た「色」の衝撃を、ハルはおそらくずっと忘れないだろう。
それは生まれて初めて見た、生きた緋の色であった。
「な……!あ、え、っと」
燃えるような赤い目とばっちり目が合って、ハルは頭が真っ白になった。何か言おうと思うが言葉が出てこない。ゆっくりと瞬きする女を見ていると、聞きたかった事や言いたかった事が全て消えてしまったのだ。艶のある闇の中に浮かぶ緋の光……正直に言えば、ハルの頭にガツンと衝撃が訪れるぐらい、女は美しかった。
「……あなたが」
しばらく一人アタフタするハルをじっと見つめていた女は、不意に口を開いた。耳に届いた凛とした声に、さらにハルが飛び上がる。
「な!ななな何だっ?!」
「あなたが……次の「ゴシュジンサマ」か」
「……は?」
ハルは一瞬、女の言葉の意味が理解できなかった。それほど突拍子のない言葉だった。
「私は緋の宝珠の守護騎士。あなたを守護する者」
女はハルの戸惑いなど気づいていないかのような様子で冷静に自己紹介を始めた。しかし女の言葉はハルの混乱をさらに加速させるだけである。
「え、いや、いきなりそんな電波じみた事言われても……ていうか緋の宝珠って何だ?」
その質問に女はハルに向かって指をさしてきた。一瞬意味のわからなかったハルだったが、女の視線はハルではなく、ハルの手元に注がれている。ハルも同じように見下ろしてみれば、そこには眩い緋色の玉があった。
「あなたの持つそれが、緋の宝珠だ」
「これが……」
「私はその宝珠から生まれた。宝珠と、その宿主を守るために」
ハルは注意深く女を見つめた。女は印象的な赤い目で飽きることなくハルを見つめている。その顔は冗談を言っている顔ではなかった。ついでに言うと嘘を言っている訳でもなさそうだった。ハルとしては嘘をついていて欲しいような気もしていたが、それにしてはあまりにもその目は真っ直ぐすぎた。
思いもしていなかった展開にハルは女の目の前から今すぐ逃げ出したい気分であったが、それを何とか踏みとどまって言葉を続けた。
「さ、さっきから何なんだよ守るだの守護騎士だの何だの。この緋の宝珠って一体何なんだよ」
女はゆっくりと瞬きをしてから、ハルの質問に答えた。
「知らない」
「……は?」
「私は守るだけ、宿主を導く事は私の役目ではない」
「いや……それにしても知らないって」
戸惑うハルに、女は首をかしげてみせた。心の底から不思議そうな仕草だった。
「今まで宝珠の宿主となった者は皆意味を知っていた。何故あなたは知らない?」
「俺が一番知りてえよ……」
その真っ直ぐな視線に無知を責められているような気分になる。ハルはがっくりと肩を落とした。
今までの良く分からない会話を要約すると、この玉は緋の宝珠という名前で、この女はこの玉から生まれた守護騎士らしくて、この玉を手にしたハルは宿主とやらになってしまったらしい。
そんでもってこれは予想だが、この玉は遺跡に隠されるようなレアなもので、この玉をわざわざ手に入れようと狙っている者もいるのではないだろうか。人間(?)一人が守護騎士として出てくるほどだから、実は大変な力が眠っているものなのかもしれない。それを、偶然手に入れてしまったとしたら。
しばらく考え込んだハルは、先ほどの台座に手にしていた玉を置いてみた。
「こ、これで、俺が手にした事は無かった事には」
「ならない。一度宝珠を手にした宿主は時が来るまでずっと宿主だ」
「その時っつーのはいつくるんだよ」
「知らない」
無情に首を振った女を見てハルは決めた。台座に緋色の玉を置いたまま、ダッシュで遺跡からの脱出を図ったのだ。
何だかものすごく面倒そうな事に巻き込まれそうだ。今まで通り自分のペースで各地を回りのんびりと絵を描いていきたいハルには耐えられそうにない。だから、逃げよう!
こちらを見つめる女の横を走り抜けて、ハルは遺跡の壁にしがみついた。出口は頭上に見えている、後は全力でよじ登るだけだ。ハルは振り返らないようにがむしゃらに壁を登った。平常ならば絶対に出来ない力技である。これが火事場の馬鹿力というものなのか。
下から見上げた時は遥か高くに見えた出口はすぐに目の前へとやってきた。崩れた穴の淵に手をかけ身体を遺跡から引きずり出したハルは、まるで悪夢から抜け出したような心地で深呼吸をした。
「っはー!よかった、逃げだせた……いや油断はならない、今すぐここから離れないと……」
「そんなに急いでどこへ行く」
「決まってんだろお前からなるべく早く遠くに逃げるんだよってすでにいるしー!」
思わずノリ突っ込みしてしまうぐらいハルは驚いた。全力で遺跡を抜け出した目の前ですでに女がハルを見下ろしていたのだ。普通に立っても見下ろされるこの身長差が男として憎い。口をパクパクと開け閉めさせながら、ハルは何とか言葉を絞り出した。
「な、んで、すでに先回り、してんだよ!」
「さっきも言った。一度宝珠を手にした宿主は、時が来るまでずっと宿主だ、と」
女は再びハルの手元を指差した。嫌な予感がする。さっきまで、今まで、この手の中は空だったはずだ。両手で壁にしがみついてここまで這いあがったのだから当然だ。だから遺跡内の台座に置いてきたあの玉がここにある事なんて、無いはず、なのに。
「何でだよ、何で俺はこの玉っころを持ってるんだよ!」
ハルがいつの間にか手に持っていた玉は確かに先ほどの赤い玉、女曰く緋の宝珠だった。その衝動のまま力の限り遠くに投げてみる。玉は弧を描いて森の中へ消えていった、それを今しがた見届けたはずなのに、恐る恐る手元を見れば、何事も無かったかのように玉はハルの手の中に収まっていた。
これは何のホラーだろう。ハルは己の中から血の気が引くのを感じた。
「一体どうなってるんだ……これは呪いか何かか?」
「あなたが宝珠を手にしたその時から、時が来るまで宝珠はあなたから離れない。そういう事だ、ゴシュジンサマ」
「………」
女のすごく不自然な呼び名に、自然と力が抜けていく。この玉にいくらハルが手放そうと思っても自然とついてくる呪いがかけられているのなら、その宝珠の自称守護騎士のこの女もハルについてくるという事だ。それは逃れられない事実であった。
宝珠と同じ色の美しい緋の瞳でなおもハルを見つめ続ける女。その目と玉を交互に見たハルは、やがて大きな大きなため息をついた。
「……どうでもいいから、そのゴシュジンサマっつーのはやめてくれ」
今この瞬間、ハル・フロウムの一人旅にもう一人(?)仲間が増える事が決定したのである。
第一話 運命との邂逅
11/01/23
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