ハルの周りの景色は、さっきからずっと変わらなかった。綺麗に晴れ渡る青い空、色鮮やかな緑の木々、手の中にある紅い玉、後ろからずっと付いてくる黒い女。前半ふたつの色を見ていると何とも心が安らいでくるというのに、後半ふたつの事を思うだけでどことなく心が重く感じてくるのはどうしてなのだろうか。
最早黙って歩くしかないハルの後を歩く女が、やがて声をかけてきた。
「ゴシュジンサマ」
「……だから、その呼び方やめろって。大体何でご主人様なんだよ」
振り返って尋ねれば、女は瞬きしながら答えた。
「前の宝珠の主に、こう呼べと教わった」
「前の主は変態か!俺はそんな趣味まったくないから、ご主人様だけはやめてくれ……」
「では、何と呼べば」
女は答えを求めてハルをじっと見つめてくる。恐ろしいほど真っ直ぐなその視線にさらされていると、何もしていないのに自分が悪い事をしている気がしてくるから不思議だ。ハルは少し言葉を詰まらせた後、再び前を向いて歩きだした。
「……ハル。俺はハル・フロウム。だから普通に名前で呼んでくれ」
「分かった、ハル様」
「様もいらねえよ!」
「分かった、ハル」
女はようやく満足してくれたようだ。それを最後に、しばらく双方無言で足を進める。十歩かそこら歩いた後、痺れを切らしたハルから今度は声をかけた。
「で、お前は?」
「?」
「いやだから、お前の名前。俺が名乗ったんだから一応聞いとかないとな」
すると女は心の底から不思議そうに首をかしげた。まるでハルの質問それ自体に疑問を抱いているような表情だった。そしてそれは正しかった。
「私は緋の宝珠の守護騎士だ」
「それは知ってるって。その緋の宝珠の守護騎士様の名前を聞いてるんだってば」
「……?」
再び首をかしげる女。ハルの脳裏に嫌な予感が浮かび上がる。そんな、まさかな。
「まさかとは思うが……名前が無い、なんて言わないよな」
「私は緋の宝珠の守護騎士だ、それ以外の何者でもない」
女の口ぶりにハルは確信した。女には、それ以外に名乗る名前が無いのだと。そしてそれは女にとって当然のことなのだ。何だかハルは脱力した。
「おま……俺の前にもゴシュジンサマとやらが何人かいるんだろ?そいつらはお前の事何て呼んでたんだよ」
「色々だ。そのまま宝珠だったり騎士だったり、悪魔だったり化け物だったりひーちゃんだったり、そもそも呼ばれなかったり」
「………」
つっこみたい事がいくつかあったが、それ全てにつっこんでいたらおそらく日が暮れるだろう。ハルの予想だが、多分その中でも異色を放ってるひーちゃんとやらは、きっとゴシュジンサマ呼びを強要した変態さんが呼んでいたに違いない。
「何か、全部お前にあんまり似合わない呼び名だな……ていうかほとんど名前じゃないし」
「……そうかな」
「しかし困ったな、マジで名前が無いとすると、何て呼べば……あ」
ハルは足を止めた。うっそうと生い茂る木々が若干数を減らした、森の開けた場所であった。目の前に現れた小さな湖と、遠くに見える山々のコントラストが映える、何とも美しい景色だ。その光景をしばらく眺めたハルは、ぽつりと言った。
「そうだ、絵を描こう」
色んな出来事が積み重なっていっぱいいっぱいになったハルは、どうやら「逃げ」に走ってしまったようだ。いくら逃げても、手の中の玉も隣の女も消えてくれないと分かってはいたが。それでもハルは、若干の安らぎが欲しかったのだった。
「なあ、悪いけどこれに水汲んできてくれないか?」
「分かった」
一番眺めがよさそうな所に腰を下ろしたハルが小さな器を渡してみれば、こくりと頷いた女が文句も言わずに傍の湖へと歩いていってくれた。揺れる長い髪を眺めながらハルは筆を手に取り、スケッチブックを取り出す。今までずっと手に持っていた緋色の玉を恐る恐る隣に置いてみると、手の中に戻ってくる事無くそのまま地面に転がった。戻ってくる距離の境界線が存在するのかもしれない。
少しホッとしたハルが女に目を戻せば、湖の畔で屈み込んでいる所だった。もうすぐ戻ってくるな、とどんな構図で描こうか考えながら待っていたハルであったが、しかし。
「……遅い。あいつ何してるんだ?」
いつまでたっても戻ってこない女に再び顔を上げれば、ちょうど湖から女がこちらへ戻ってくる所だった。ずっと水の中を覗きこんでいたというのだろうか。魚でもいたかなと思ったハルだったが、女の顔色を見てギョッとする。女は何か見てはいけないものを見たような青い顔色をしていたのだ。
「……ハル」
「どっどうしたんだ?何か湖にいたのか?人魚か?新種のサメか?」
「本当に……本当に「これ」が私か?」
自らを指してそんな事を言う女に、ハルは首をかしげた。質問の意味が分からなかった。どうやら湖の水面に映る自分の姿を見た様子だが。
「お前が何を言いたいのか分からんが、お前は俺が初めて顔を合わせた時からその顔その姿だぞ」
「……そうか」
「何だ、何か不満なのか?……せっかくそんな綺麗な姿してるって言うのに」
ハルの言葉に今度は女が首をかしげる。今思いっきりストレートで褒めたのに、女には伝わっていないようだ。無垢な赤い目で見つめられて自分で自分が恥ずかしくなったハルは、頬に熱が集まるのを自覚しながら慌てて顔をそらし、手を突き出す。
「み、水!注いできたんだろ!」
「ん」
女から水を受け取ったハルは、とにかく絵を描くことにした。余計なことは考えずに、今はただ絵を描こう。そうしよう。
筆に絵の具を軽く付けて絵を描き始めたハルの隣に、女は大人しく腰を下ろした。ハルの手元を興味深げに眺めたり、物思いに沈んだり、ぼーっと景色を眺めたり、とにかく女が黙ってくれていたのでハルはとても助かった。何かと話しかけられてしまえば余計に混乱してしまうし、何より絵に集中出来ない所だった。
そうしてしばらく静かな時間が辺りに流れた。聞こえるのは風の吹く音と、遠くで鳴く獣や鳥の声、それにハルが動かす筆の音ぐらいだった。何かを考え込むように押し黙っていた女は、ハルの絵が完成に近づくにつれてスケッチブックを眺める頻度が増してきたようだ。見なくても強烈な視線が注がれている事を肌で感じ取ったハルはそれを少々くすぐったく思ったが、見られて困るものでもないのでそのままにしておいた。
気晴らしに描き始めたものなので、そんなに凝ったものではない。ハルの絵はほどなく完成した。絵の具をケチっているために水を足して薄く淡い色合いの湖のある風景が、スケッチブックに写し取られている。風景画にはなかなかの自信があるハルは、満足げにうなずいた。
「よし、完成」
「完成したのか」
「ああ。ま、売れるような立派なもんじゃないけど、まあまあ良い出来だな」
たまにとても素晴らしい景色に出会った時なんかは、ハルはそれを描いて絵を売ったりする。このご時世外を旅するのも危険があってそう簡単に出来る事ではないので、これが結構良い値で売れたりするのだ。それをハルは生活費の足しにしているのだった。
出来上がった絵を一通り眺めた女が、どこか感嘆するように息を一つこぼす。
「すごいな」
「ん?何がだ?」
「最初は真っ白な紙だったのに、今はこんなに綺麗な風景がある。まるで魔法みたいだった」
「な、何だよ、そんな風に言われると照れるだろ。前に知り合いにも同じように言われた事あるけど、別に俺もたいした腕じゃないし」
本気で尊敬しているような眼差しで見つめられてハルは慌てた。自分よりすごい絵描きなんてその辺に一杯いるもんだとハルは自負していた。ただハルは上手い下手は置いといて、絵を描くのが好きなだけなのだ。だから必要以上に褒められると戸惑ってしまうのである。
絵を描かないものが見ると、奇跡のように感じてしまうのか。ハルが道具を片づけ始めても、女はじっと絵を見つめていた。時折絵と景色を交互に見比べているのがさすがにこっ恥ずかしい。しかし女があまりに熱心だったので、ハルはしばらくそのままにさせておいた。全てを片付け終えてから、ようやく声をかける。
「……そんなにその絵が気に入ったのか?」
「飽きない」
「そ、そうか」
「この絵はこの景色にそっくりだけど、色が少し違う」
「そりゃ絵の具ケチってるからな」
お金の問題もあるが、旅先に持っていける道具は限られている。途中で絵の具を全部使い切ってしまえば町に戻るまで買う事すら出来ないのだ。出来る限り節約していくしかない。旅は好きだがそれが面倒だと呟くハルを見ながら、女はまだ大事に絵を持っている。
「私はこの色も好きだ」
「こんな薄い色でもか?」
「何だか、優しい」
淡く薄い色がまあ、優しいと表現出来なくもないかな、と心の中で照れ隠しのようにハルは思う。自分の描いた絵を「優しい」と言われて悪い気はしない。
その時ハルはふと気がついた。もしかしたらハルの気のせいかもしれないが……絵を見つめる女の瞳が、さっきよりも美しく見えたのだ。元からあの緋の宝珠と同じ色の目が綺麗だと思ってはいたが、今の彼女の瞳は前よりもっと輝いてみえた。無機質だった珠に、生命の光が宿ったような、奇跡のような輝きに思えた。
その瑞々しい緋色と似た色を、ハルは以前見た事があった。
だから、声に出して言った。
「カエデ」
しばらくそのままだった女は、やがてキョトンとハルを見つめた。自分に掛けられた言葉だと思いもしなかったようだった。
「ハル?」
「カエデ。知ってるか?」
「知らない」
唐突にハルの口から飛び出してきた謎の言葉に女は戸惑っているようだった。ハルは頭の奥に浮かぶ懐かしい景色を思い出しながら、話してやった。
「木の名前だ。俺の故郷に生えていたんだ。普段は緑の葉なんだけどな、秋になると一斉に葉を赤に色付かせるんだ。どうせなら中途半端なピンクより俺もこんな赤色の髪が良かったと何度思った事か」
「綺麗なのか」
「ああ綺麗だ。お前もいつか見てみればいいよ、この絵で感動するぐらいだから度肝を抜くかもな。それぐらい美しくて、俺が好きな木の名前だ」
ハルの話が見えなくて首をかしげる女の目を、身長差が気になりながらも見上げた。やっぱり、そうだ。ハルは己の感覚が間違っていなかった事を知る。
「だからお前、「カエデ」な」
「えっ」
「そのカエデの赤色と、お前の目の色、そっくりだ」
女の瞳が大きく見開かれた。その瞬間、女の時が止まったかのようだった。それぐらい音を立てて固まっていた。あまりにも良い固まりっぷりに、こいつは言葉の意味を分かっていないんじゃないかとハルが心配になるほどだった。
やがて、無理やり絞り出したような声を女が出した。
「ハル……それは、一体、どういう」
「だから、お前の名前だよ、カエデ」
言い聞かせるようにもう一度言ってやれば、またしばらく動きを止めた女はゆっくりと、静かに瞳を閉じた。どこか噛み締めているような様子に見えた。ハルはそれをしばし眺めてから荷物を取って歩き出す。
「ほら、行くぞカエデ」
振り返り呼びかけたハルを女は見た。そうして呼び声に答え、ハルへと足を踏み出す。
この時、この瞬間、女は「カエデ」となった。
例え本人にそのつもりはまったくなかったとしても、ハルの手によって。
「……カエデ」
自分で自分の名を呟いたカエデは、自分の胸の内に初めて体験する気持ちを発見した。
しかし今のカエデには、その気持ちの「名前」は分からない。ただ、この気持ちがハルによってもたらされた事しか、分からなかった。
カエデは後で知る事になる。
その気持ちの名が、「喜び」だったという事を。
11/01/24
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