木々が生い茂る森から抜け出し近隣の町へ辿り着いた時、すでに太陽はその姿を遠くに見える山の向こうへと半分沈めさせていた。ハルが聞いた噂通りの立派な遺跡がこの森の中に隠れていれば、そこで絵を描くために一晩明かす予定であったが、結局一日で戻ってくるはめになった。遺跡が思ったほどの規模では無かったことと、絵を描くどころの騒ぎではなくなってしまったためだ。
騒ぎの元凶は、今ハルの隣で物珍しそうに町の中を見渡している。少々小さな町だが、森を横切る旅人たちがよく立ち寄る、にぎわいのある町である。今も日が暮れようとしている時間なのに、通りには行き交う人々の姿があった。放っておけばいつまでもその場に突っ立ったまま見渡していそうなカエデに、ハルはようやく声をかけた。
「おーいカエデ、早く宿を探しに行くぞ。モタモタしてると借りる部屋が無くなるからな」
「分かった」
名を呼べば素直についてくる。自分よりも(悔しい事だが)背の高い女であるはずなのに、こうしていると何故か手の掛かる幼子のように感じてしまう。そんな不思議な気分を感じながら、ハルはとりあえず見つけた宿へと入っていった。大きな通りから少しだけ路地に入った所にある、比較的小さな宿だった。こういうこじんまりとした宿の方がハルは落ち着く感じがするのだ。
「部屋、あいてるか?」
「ああお客さん運がいいね、ちょうど後一部屋あいてるよ」
カウンターにいた主人は愛想よく鍵を一つ取り出した。本来ならばラッキーだったと喜ぶべき所であったが、今のハルは素直に喜べない。もちろん、カエデのせいだった。カエデはというと、物言いたげに見つめてくるハルにきょとんとした視線を返すのみだ。
「部屋、ひとつだけだけど……」
「何か問題があるのか」
「ありまくりだろ!」
「なあに心配はいらん、ちょうどベッドも二つある部屋だよ。それともあんたたちは一つの方がよかったかね、がははは!」
豪快に笑う主人は明らかにハルとカエデの関係を勘違いしているが、勘違いするなと言う方が無理な組み合わせである事は確かなので、ハルは乾いた笑い声をあげながら鍵を受け取るだけであった。
見た目は美しい女だが、カエデは人間ではないのだ。そういう事を気にしない方が良いし本人だって気にしていない、もしくは気にすること自体知らない可能性だってあるのだから。それでもどうしても意識してしまうのは、ハルがお年頃だからなのか。女性と旅する事なんて初めてなのだから、仕方がない。
「まあいいか……。カエデ、荷物置いてまたちょっと外出るぞ」
「部屋、取ったのにか」
「色々買い足さなきゃいけないもんがあるんだよ」
旅には色々な準備が必要だ。だから立ち寄った村や町での買い物というのは非常に重要になる。狭いが割と小奇麗な部屋に大きな荷物を置いたハルは、少しだけ悩んで、その手に宝珠を取った。どうせ置いていっても勝手にくっついてくるのだ、それなら最初から持っておいた方が良い。普段よく使う細々とした物を入れて持ち歩いている袋に宝珠を入れ、再びハルは町の中へと繰り出した。
通りには、いくつか屋台も立ち並んでいた。日用雑貨やアクセサリー、骨董品や食べ物まで選り取り見取りである。ふと小腹がすいている事を感じたハルは、隣のカエデを見た。そういえば、カエデはどうなんだろう。
「なあカエデ、お前は腹は減るのか?」
「腹?」
「つまり、何か食べるのかって事だよ」
カエデはしばらく押し黙った。ハルの質問を頭の中で噛み砕いているようだった。やがて自分の中で結論が出たのか、ハルへと向き直ってくる。
「腹は減らないが、食べられない事は無い」
「……それはつまり、特に必要ではないけど食べる事は出来るって事か」
「ん」
こくりと頷くカエデ。ふーんと呟いたハルは、ある屋台の前で立ち止まった。そのまま動かなくなってしまったハルにカエデが首をかしげていると、おもむろに屋台へと向き直る。
「おっさん、それ二つ」
「あいよ!ミルクをたっぷり使った特別品だから、味わって食えよ!」
屋台のおっさんから何かを買い取ったハルは、手に持っていた二つのうち一つをカエデに突きつけてきた。どうすればいいのか皆目見当がつかないカエデは、ただ戸惑うばかりだ。
「ハル?」
「これ食ってみろ。少なくとも不味いもんじゃない」
カエデはハルの言葉でようやく、この突きつけられたものは自分のために買われたものであると気付いたようだ。恐る恐る謎の食べ物を受け取って、少しの間じっと見つめてから、思い切って齧り付く。
その瞬間、カエデは音を立てて固まった。
「は……ハル」
「どうだ?」
「冷たい」
「まあそうだろうな、アイスだからな」
かちんこちんに固まるカエデに、予想以上の反応が見れたハルはにんまりと笑った。やはり、カエデはアイスを食べるのは初体験のようだ。冷たい棒状のアイスを思いっきり口の中に突っ込んでしまったカエデは、キーンと麻痺する口内に堪えるようにプルプルと震えている。
面白いが、少し可哀想になってきた。
「口の中がおかひい……上手く動かない……」
「悪い悪い、噛みつくんじゃなくて、これは舐めて溶かしながら食うもんなんだ。そうすればキーンってならないから」
「舐めて……?」
「そう、こうやって」
べっと舌を出してハルがお手本を見せてやる。舌でアイスを舐めとれば、その冷たさとともにミルクの甘さも一緒に溶け込んできて、とても美味い。この地域のアイスは旅人の間でなかなか美味いと評判で、ハルも是非一度食べておきたいと思っていた代物であった。反応を面白がるのも良いが、カエデにも初体験のアイスの美味しさというものを味わってもらいたかった。
ハルの食べ方を興味津々に眺めたカエデは、少しの間自分のアイスをじっと見つめてからハルを真似るように下でゆっくりと舐めとった。
口の中でじっくりとアイスを味わったカエデに、本日二度目の衝撃が襲いかかる。
「は……ハル」
「どうだ?」
「美味しい」
「だろ?美味いだろ」
カエデは再びプルプルと震え始めたが、今度は冷たさからくる震えではなかった。紛う事無き、アイスのあまりの美味さからくる震えだった。その表情はあまり動いていなかったが、確実にカエデは感動していた。アイスの冷たさと甘さが同時に襲いかかってくる絶妙なハーモニーに。
それからしばらくカエデはアイスの虜となった。この甘さをもっと味わいたい、しかし一気に食べるとその冷たさにやられる、急いで味わいたいがそれができないもどかしさと戦いながらアイスに夢中なカエデを、ハルは自分のアイスをペロペロ食べながらのんびりと見守った。通行人の邪魔にならないように通りの隅にカエデを引っ張って、思う存分堪能させる。
カエデが我に返ったのは、アイスがその姿を消して棒だけとなった後であった。あまりの没頭ぶりに自分がどこにいるか分からなくなったようにあたりをきょろきょろと見まわしてから、ハルを見る。
「私は、今まで一体何を……」
「アイス食ってただろ、美味そうに」
「アイス……そうか。ハル、このアイスというものは、もしかして魔法の食べ物の類なのではないだろうか。人をその味の虜にし、注意力を削いで油断させるという悪魔の食べ物なのでは」
「それだけは絶対無いから安心しろ。まあそこまで夢中になるほど気に入ってくれたんなら食わせた俺にも喜ばしい事だから、あまり気にするなよ」
ちょっと高めの肩をぽんぽんと叩いて落ち着かせてやるが、カエデはふるふると首を横に振ってみせた。その表情には後悔と、しかしアイスを食べられた事による幸福感がないまぜに浮かび上がっていた。
「私は守護騎士だ。それなのにハルを守る事を忘れ食べ物に夢中になるなんて、あってはならない事だ」
「いや、そんな気張って見守られるような狙われる人間じゃないし俺」
「いつ誰に狙われるか何て分からない、だからこそ常に辺りに気を配り守らなければならないんだ。それなのにあのアイスの美味しさで……冷たくて甘くて、あの美味しいアイスのせいで……アイス……」
「おーい涎出るぞ涎ー」
アイスへの思いにトリップしかけたカエデはハルの呼びかけにハッと戻ってくる。そんな自分に愕然とするカエデの鼻先に、ハルは指を突きつけてやった。
「あのなあ、そんなガッチガチに見張られても俺が窮屈な思いするだけなんだよ。たとえ、こいつのせいで狙われるような目にあったとしてもなあ」
腰の袋から、そっと緋色の玉を取り出す。薄暗くなってきた夜間近の時間でも、宝珠は燃え盛る様に輝いて見えた。それだけで、この玉が不思議な力を持っている事が分かってしまう。
そんな不思議な玉から視線をそらして正面を見れば、緋色の玉と同じ色の瞳がハルを見ていた。守護騎士と言うのだからその瞳はきっと、正真正銘宝珠と同じ色なのだろう。しかしハルには少し違う色に見えた。無機質に光る玉っころよりも、カエデの瞳の中に息づく赤色の方が美しく、瑞々しく感じるのだ。
「狙われてるって分かってから守ってもらえばそれでいいんだよ。だから普段はさっきみたいにアイスに夢中になったりぼんやりでも何でもしててくれ、分かったな?」
「でも、それでは万が一手遅れになってしまったら」
「あーもう、俺が良いって言ってんだから良いだろ?ご、ご主人様の命令が聞けないのか!」
かなり恥ずかしい台詞を言ってから、他の誰にも聞かれていないかときょろきょろ見回す。今のを聞かれてしまえばまず確実に誤解されるだろう。幸いハル達の方を見ている者は誰もいなかった。
ホッと一息ついてカエデを見れば、ハルの言葉に驚いたようで目を大きく見開いていた。ハルと視線が交わると、悩むように少しだけ目元を歪ませた後、仕方ないように頷いた。
「……分かった。過剰にハルの事を見ないようにする」
「ああそうしてくれ。……ていうかつまり、今まで俺の事過剰に見ていた訳か?恥っずかしいなおい……」
納得してくれたカエデにホッとすると同時に今までの自分の行動を振り返るハル。きっと、変な事はしていなかった、はずだ。
「よし、それじゃ買い出し再開するぞ。店が閉まる前に揃えとかないとな」
「ん」
宝珠を袋にしまい歩きだしたハルの後をついていきながら頷くカエデは、ふと自分の長い髪を手にとって眺めた。その顔がどことなく不満そうに見えたので、振り返ったハルは首をかしげる。
「どうした?」
「髪が、少し邪魔に感じて」
「ああ、言われてみればものすごく長い髪だな」
改めてカエデの髪をハルも眺める。櫛なんて必要ないほど真っ直ぐ伸びたカエデの漆黒の髪は、カエデの足の付け根までの猛烈な長さを誇っていた。ここまで美しい生の天使の輪っかというものをハルは初めて見た。しかしこれだけサラサラだと触り心地は良さそうだが、少し首を動かしただけで顔に掛かったりして確かに邪魔そうだ。
これではいざという時に動きの妨げになってしまうとか何とかブツブツ呟くカエデの様子に、ハルは通りの店を見渡した。そして目当ての物を見つけると、店主に値段を確認して、品物を一つ手に取った。
「ハル?今度は何を買ったんだ」
「まあそんなに高いもんじゃないし。色はこれがいいか」
ハルの手の中にあるものは、赤色の小さな飾りがついた細長い輪っかであった。カエデはそれをよく知らなかったが、髪留めだった。店主に小銭を渡してそれを買い取ったハルは、手の中の髪留めをカエデに渡そうとして、そしてやめた。
「ほら、これ……って、その様子じゃつけた事なさそうだな……仕方ない。カエデ、後ろ向け」
「?こうか」
言われてハルに背中を見せるカエデ。目の前にある長い髪に触れる、その前にハルは少しだけ動きを止めた。
「……。出来れば、ほんの少しだけ屈んでくれれば俺が嬉しい」
「分かった」
ものすごい屈辱感を味わいながらも、屈んでもらったおかげで自分の目線の高さに来た後頭部から、ハルはカエデの髪を手に取った。その予想以上の手触り感に内心ドキドキしながら、ハルは器用な手つきで先ほど買った髪留めを閃かせる。その一瞬で、カエデの長い髪は一つにまとめられた。
「これでよし。どうだ、痛くないか?最初は髪が引っ張られて慣れないかもしれないけど、我慢しろよ。さすがに切るのはもったいないしな」
「これは……」
しばらく自分の髪に何が起こったのか理解出来なかったカエデであったが、首を少し動かしてすぐに分かったようだった。髪が首の動きを邪魔して来ないのだ。後ろに引っ張られる違和感はあるが、そんなもの今までのうっとおしさに比べたら些細な事である。
バタバタと首と髪を左右に動かした後、カエデはハルを見た。その眼差しは尊敬の光に満ちていた。
「ハルはすごい。髪が一瞬で邪魔にならなくなった。ハルはもしかして邪魔になる物を消す能力を持つ魔法使いなのでは」
「お前、自分にとって不思議なものは何でも魔法のせいにしてないか。魔法じゃねえし道具だし!」
「道具?なるほど、ハルは道具を使って魔法を操るのか」
「……もういい、後でやり方教えるから」
「何と。私にも魔法が使えるだろうか」
「はいはい練習すれば使える使える」
一から付き合っていたらきりがない。世間知らずの子どもの世話をしている奇妙な感覚を自覚しながら、ハルはカエデを引っ張って歩きだした。カエデは自分の後頭部に手をやって、自分の髪が一本にまとまっている感触を味わっている。こんな様子で、ハルを守る守護騎士だの何だの言うものだから、何だかそれが少しおかしくなってハルは一人でこっそり笑った。
そうだ、こっちもただの変な奴だと思えばいいのだ。変な玉から出てきた正体不明の生き物(?)だなんて考えずに、ただの世間知らずな女だと考えればいいのだ。そうすれば、ずっと気が楽になる。少なくとも、こうやって会話していて楽しい気分になる。
「……ま、それでもこの玉は消えないけどな」
腰の袋の中にある宝珠の感触を嫌でも思い出しながら、それでもハルはカエデをこの無機質な物体と同じ「物」のように扱う事なんてもう出来なかった。名前をつけてしまった事が不味かったのかもしれない。
少なくともハルは、純粋な瞳でこちらを見つめてくるこのカエデが、嫌いではなかった。
日が完全に暮れ、通りに明りが灯され人工的な美しい光の道が町の真ん中に出来上がる中。あーだこーだ言いながら旅に必要なものを買い揃える桜色の髪の男と黒色の髪の女の後姿を、物陰からひっそりと見つめる二つの目があった。闇の中でも青く輝くその瞳には、好奇心の塊が煌めいていた。
「へへ……宝珠、みーっけ」
11/01/26
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