死神と少年



「この世の中は、つまらない事だらけだ」

そう呟いて少年は空を見上げた。どこまでも見通せるのではないかと思うぐらい晴れ渡った青い空だった。今の自分の胸中とはまったく正反対の空だな、と少年は思った。
少年の手には一冊のノートがあった。どこにでも売ってある、ありふれた大学ノートである。その中には、少年が自ら書いた文と、自ら描いた絵があった。それは、手作りの絵本だった。
少年はその本を、このあまり人が来ない原っぱに捨てに来たのだ。

「絵本の中に何を描いたって、現実にそれは起こらないんだから」

一度だけ少年はノートをめくった。そこには、一生懸命本の中に夢を描いたあの時の自分がいた。描かれているものを少しだけ目で追った少年は、すぐにノートを閉じた。

「もう、何描いたって同じなんだ、意味が無いんだ」

とうとう少年は空に向かって腕を振りかぶった。見上げた青空が何故だか目に刺さって、ぎゅっと目を瞑る。少年はそのまま、ノートを投げた。
高く空に舞ったノートの行方を、最早少年は見届ける事無く背を向けた。あまり人が来ないこの原っぱに捨てられたノートはおそらく誰に拾われる事無く、雨風に晒されボロボロになり、大地に溶けてこの世界から無くなるのだろう。
生い茂る名も無き草の上に落ちるノートを頭の中に思い浮かべながら、少年は歩き出した。
しかし、少年の予想した、地面にノートが落ちる音は聞こえてこなかった。

「いてっ」

代わりに聞こえてきた誰かの声に、少年は驚いた。確かにこの原っぱには、少年一人しかいなかったはずなのに。少なくとも目の届く範囲には誰もいなかったはずだ、それを確認してノートを捨てたのだから、間違いは無い。それなのに、今の声は一体誰のものなのか。

「今日の天気は不思議だな、空からノートが降ってくるなんて」

思わず足を止めた少年の耳に、のんびりとした男の声が届く。なにはともあれ、原っぱに潜んでいたらしい誰かさんに少年の投げたノートが当たってしまったようだ。ごめんなさい、と謝るために慌てて振り返った少年は、その瞬間目に飛び込んできたものに声を失ってしまった。
少年の目に映ったものは、草の上ににょきっと生えた、とても大きな鎌だったのだ。

「ほう、中は絵本か」

パラパラと紙をめくる音が聞こえる。しかし少年は驚きに固まってしまって、しばらく反応する事が出来なかった。ようやくハッと気がついたのは、巨大な鎌が、いや鎌を持った声の主がむくりと立ちあがったのを見てからだった。
目も髪も服も全身何もかも真っ黒な男は、右手に鎌を担ぎ左手にノートを持って少年へと振り向いた。

「これは、君のものかい?」

目が合った。色んな衝撃に打ちのめされながらも、少年はこくりと頷く。それを見た男は、手に持ったノートを不思議そうに眺めた。

「君なら、このノートが空から降ってきた理由が分かるんじゃないかな」
「わ、分かるよ……捨てたんだ、僕が」
「どうして?」

男に尋ねられて、少年はすぐに答えられなくて口を噤んだ。そもそもどうしてこんな見ず知らずの男にそれを話さなくてはならないのだろう。ノートを頭に当ててしまった事は悪いとは思うが、それとこれとは話が別のはずだ。

「あ、あんたには関係ないだろ」
「ふむ」
「それよりあんたは誰なんだよ、こんな人気のない所でそんな危険なものを持って!」

少年に指差された男は、一度自分の身体を見下ろした後、少年に向き直って首をかしげてきた。

「君は何だと思う?」

尋ね返されるとは思っていなくて、少年は驚くと同時に思わず考えた。男は何者だろう。全身真っ黒で、大きな鎌を持って、何だか不思議な人間。そういう者を少年はひとつ、知っていた。
いやまさか、と思いながら、少年はおそるおそる呟いた。

「……死神?」

少年の言葉に、男はにっこり笑った。

「君がそう思うのなら、そうなんだろう」
「な、何だよそれ、そんなの有り得ないだろ」
「どうして有り得ないんだい?」
「だって……」

無邪気に尋ね返してくる男に、少年は言ってやった。

「死神なんて、現実にいる訳、ないだろ!」

そう、いる訳ないのだ。死神だけじゃない、天使や悪魔やお化けや、吸血鬼や魔法使いやサンタクロース、その他の沢山のおとぎ話の住人が、この現実世界に存在している訳が無いのだ。それを少年は知っていた。知ってしまった。大きくなるにつれ自然と悟ったり、同級生にからかわれて思い知ったりして、少年は知ってしまった。

「そのノート、見たんだろ?笑いたければ笑えよ。こんな夢物語、現実にある訳が無いって、笑えばいいだろ!」

少年は、目の前の男が自分をからかっているのだと思った。少年が書いた絵本を見て、こんなものを書くなんて何て子どもなんだろうと馬鹿にしているのだと思ったのだ。それは少年が実際にからかわれた言葉だった。大人になったら、夢を見る事すら許されないのかと少年は絶望した。だから、下らない夢が描かれたノートをここに捨てに来たのに。
せっかく振り切る様にノートを捨てた端から得体のしれない男に拾われてしまったので、少年は憤っていた。

「もうそんなもの、僕には関係ないんだ。僕はもう、そんなものを信じる子どもじゃ無いんだから」

まるで自分に言い聞かせているような言葉だと少年は思った。ノートを片手にじっとこちらを見つめてくる男の視線が痛い。まるで責められているような気持ちになってくる。一体何を?少年には分からなかった。
早くこの場を立ち去ろう。そう思ってもう少年は何も言わずに踵を返した。少年はあのノートをもう捨ててしまったのだから、誰が拾ったって関係ないだろう。笑いのネタに男がノートを拾うのならばそれはそれで良い。少年には関係のない事だ。ノートに描かれた絵も文も、描く時思い浮かべた夢のような物語も、少年はたった今、捨ててしまったのだから。

そうして早足で歩き去ろうとした少年の背中にぶつかった声は、まるで風のように自然と、少年のど真ん中を突き抜けた。

「君はまだ、見ていないだけさ」
「……えっ?」

振り返ると男は少年を見ていた。鎌を担ぎ、ノートを抱え、のんびりとした笑顔で少年を見ていた。ノートの中を見たはずの漆黒の瞳は、しかし少年を否定する事無く、あるがままに真っ直ぐ少年を見据えていた。

「そう、多くの人が見ていない。見て見ぬふりをして、気づいていないだけさ。それでも君はこうして描いている。気づいている。後は、見るだけだよ」

男はノートを大事にそうに撫でてから、にっこりと笑った。

「君が見ていないだけで、この世界には不思議な事が沢山溢れているんだよ。この絵本の物語のようにね」

そのままてくてくと少年に歩み寄った男は、ノートを少年に手渡した。少年はポカンとしたまま、思わず抵抗する事無く受け取ってしまう。まるで捨てられた事が嘘のように、ノートは綺麗に少年の手の中に収まった。それを見て男は満足そうによし、と頷いた。
少年はノートを見下ろした。開いて確認するまでもなく覚えている物語を、頭の中で思い描く。

「……この絵本の物語みたいなものが、世界に溢れてるって?」
「そうさ」
「そ、そんな訳ないって、さっきから言ってるだろ」
「どうして?」

無邪気に尋ねてくる男に、しかしとっさに少年は答えられない。
どうして?

「どうしてそんな訳ないって、言い切れるんだい?」
「だって、だって……皆が、言うから」
「皆もまだ見ていないだけさ」
「だって僕も、僕だってそんな不思議なもの、見た事無いよ」
「君かい?なんだ君なら、もうすでに一つ見ているじゃないか」

男は空に向かって両手を広げた。とても重そうな鎌をいとも簡単に持ち上げてみせるので、腕は大丈夫なのだろうかと少しだけ不安になる。男はそのままどこか得意げな顔で、少年を見下ろした。

「ほら、どうだ」
「どうだ、って」
「今まさに君は見ているだろう」
「見ているって……もしかして、あんたを?」

尋ねてみれば、男は当然とばかりに頷いた。

「言っただろう。君が死神と言うのなら、ぼくは死神さ」

どうだ不思議だろう、と男は胸を張る。どうしてそんなに無駄に得意げなんだろうと少年は男に呆れた。しかし確かに、こんな真っ黒な姿で見た事も無い大きな鎌を持った人なんて、少なくともただの人間には見えない。やっぱり少年には、男が死神以外の何者でもないように見えるのだ。それはただの、少年の思い込みなのかもしれないが。

「確かにあんたは不思議だね……」
「おっ、とうとう認めたか」
「でも本当に死神なの?その鎌で魂でも狩るの?」
「さあどうだろう。まだやった事が無いから、分からないな」
「何だよそれ」

鎌を眺めて首を捻る男に、少年はため息が出てきた。しかしため息を吐き出すその口元は、どうした事か笑みの形に歪んでいるのだった。この男を見ていると、何だかどうでも良くなってきたのだ。絵本を馬鹿にされた事も、馬鹿にされて怒り、悲しみ、捨ててしまおうと躍起になっていた自分も全て、何もかもがどうでも良くなってしまった。どうして自分はあんな事でやけになっていたんだろうと考え始めるほどだった。

「帰るのかい?」

少年の様子に何か気付いたのか、男が尋ねてきた。少年は少しだけ考えてから、ノートを見下ろして頷いた。とりあえず今日の所は、捨てずに持って帰ろうかなと思ったのだ。

「帰る事にするよ」
「そうか。持って帰るんだな」
「うん。何か今日は捨てなくてもいいかなって思ったんだ」
「そうだね、それが良いと思うよ。捨てる事は、いつだって出来るから」
「ああ……そうか。うん、そうだね」

少年はどこかで安堵する自分がいる事に気付いた。しっかりとノートを掴むその腕が証拠だった。きっと少年の中には、ノートを捨ててしまいたい自分と、捨てたくない自分がいたのだろう。今はどうやら、捨てたくない自分の方が強いようだ。
少年は足を踏み出そうとして、その前に男を見た。

「あの、ありがとう」
「ん?何が?」
「いや、ただ僕があんたに言いたかっただけだから」
「そうか。それならどういたしまして」

感謝の言葉を首を傾げながらも男が受け止めてくれたのを見てから、少年は歩き出した。さっきこの原っぱから一人で立ち去ろうとしていた時の足取りとは、今の歩みは丸っきり違っていた。きっとあれは逃げていたんだな、と少年は思った。逃げる必要が無い今、少年は家へ帰るために歩いていた。
そんな穏やかな少年の歩みに、男も合わせてのんびりとついてきた。

「今日の夕飯は何だろうね」
「さあ、何だろうね……えっ?」
「ん?」

少年と男は歩きながら顔を見合わせた。変わらずにこりと微笑みかけてくる男に、少年は目をぱちぱちさせる。

「何で夕飯の話?」
「だって、もうお昼は過ぎたから次は夕飯だろう?」
「死神なのにお腹すくの?いやそれより何でついてくるんだよ」
「何でって」

男は何故尋ねられるのか分からないと言った表情で、当然のようにこう答えた。

「ついていこうと思ったからだよ」
「な、何で!」
「うーんそうだな」

驚愕する少年に、男は悩んでみせた。しかしすぐに微笑み少年の手元を指差す。そこには、少年が抱えたノートがあった。

「その絵本の続きを見たいからかな」

少年はびっくりして目を見開いた。いくらじっと見つめても男は相変わらずにこにこしているだけで、先ほどの言葉を撤回する気はないようだった。男はとても不思議で得体の知れない奴だが、どうやら嘘を言っている感じではない。
それでは本当に、少年の描いた絵本の続きが読みたいと思っているのだろうか。少年が自らの想いを載せた、こんな子ども騙しのような夢物語の続きを。

「……続きを描くって、まだ決めた訳じゃないよ」
「ああ、それでもいいよ」
「それでも来るの?」
「ついていこうと思ったからね」

何故かご機嫌な様子の男に、最早少年は何も言う気が起きなかった。この男を見ていると、本当に何もかもがどうでも良くなってくる。男が死神のような姿をしている事も、勝手についてこようとしている事も、全部がどうでも良い事なのではないかと思ってしまうのだった。
だから少年は、その事に関して何も言わなかった。その代わりに、男へと尋ねた。

「ところであんた、名前は?」
「ん?」
「名前、何ていうの?」
「さっき君が言っただろう?」

小首を傾げる男に少年は思い出してみせる。少年が男に向かって呼びかけた名前と呼べるようなものは、一つしかない。理解した少年に、今度は男が尋ねた。

「そういう君は、どんな名前を持っているんだい?」
「僕?」
「これから君の事を呼ぶのに、君、だけじゃ味気ないだろう」

これから、という言葉に、少年は不思議な響きを感じた。とっさに見上げた空は、その青色をだんだんと淡く変えている。おそらくこのまま歩いて行けば、家にたどり着く頃には頭上が一面真っ赤な夕焼け色に染まるだろう。
少年はこうして、時間が経つにつれて色を変えていくこの空が好きだった。そして少年の名前は、そんな空を見てつけたのだと、昔両親が教えてくれた。

「僕、僕の名前は……」


少年と奇妙な男死神のどこか不思議な日常は、ここから始まった。

11/02/24



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