不思議なプリン



星野翔太は今年入学したばかりの中学一年生である。
新しい環境、慣れない制服、中学生と言う一歩大人に近づいた事実、そして自らの趣味、将来の夢の事などで思い悩み、最近の翔太は元気のない事が多かった。しかし、今日だけは違った。
翔太は今、我が家を目指して学校から帰路についている所だった。その歩みはとても速い。何かに突き動かされるように早足で歩く翔太の瞳は、最近ではとても珍しく真っ直ぐと確かなものだった。翔太が明確な目的を持って急いでいる証拠だった。
そのままの勢いで玄関の扉を開け、脱ぎ捨てた靴を揃える余裕も無く家の中へ駆け込んだ翔太は、息を切らせながら居間へ続くドアを開け、そして叫んだ。

「やっぱり、いる!」

翔太の目の前にはソファがあった。そしてその上に座って興味深げに新聞を読んでいる黒い人物があった。傍らに邪魔にならないように立てかけてある大きな鎌が嫌でも目に付く。翔太の声に振り返ってきた黒い瞳が、驚きに固まるその姿をとらえた。

「やあ、君か」
「いるっ!」
「何がいるんだい?」
「あんただよ、死神!」

勢いよく指を差されて、全身真っ黒の男、死神はハテと首を傾げた。

「ぼくがここにいる事がそんなに驚くような事だったかな」
「そりゃ、驚くよ……だって、だって」

指を差したまま身体を震わせた翔太は、少しの躊躇いの後、再び叫んだ。

「夢じゃなかったのかよ!」

人気のない原っぱで、この奇妙な男に出会った一連の出来事が、夢の中の出来事だったのではないかと、学校でずっと翔太はそう思っていた。思い込もうとした。それなのにハラハラしながら帰ってきてみれば、死神は普通に新聞を読んでいる。翔太にとっては叫びたくもなるというものだ。
何だか混乱しているらしい翔太の様子に、ふむと頷いた死神はソファから立ち上がった。新聞はちゃんと畳まれてテーブルの上へと戻される。

「確かに夢ではないが、君がどうしてぼくの事を夢だと思ったのか分からないな」
「いや、あんたどう見ても非現実的な存在だし、それに……」
「それに?」
「今日の朝、いなかったじゃん」

そう、今日の朝、学校に行く前に死神と出会っていれば、少なくとも今こんなに驚く事は無かっただろう。今日初めてここで死神と出会ったからこそ、あれはやっぱり夢だったのかなとか思ったのだ。
昨日、死神と出会い何故か一緒に帰る事になって、さらに一緒に夕飯まで食べた所までは確実に死神は存在していた。母親は新しく出来た友達だなどと紹介した死神の事を対して気にも留めずにもう一人分夕飯を用意してくれたのだ。美味い美味い言いながらおかわりまでした死神を、翔太は死神もご飯食べるんだなと感心して見ていた事を思い出す。その後だ。
夕飯の後二階の自分の部屋に案内して、少し話をした事は確かだ。その後翔太は宿題をやっていなかった事を思い出し、それに夢中になった。無事に終わらせベッドの上に倒れ込んだ時には、もう死神はいなくなっていたような気がする。頭を使ってとても眠かったのでその辺は曖昧だ。
そうして翌朝寝坊しそうになって慌てて家を飛び出した翔太は、起きてから今まで一度も死神と会っていなかった。昨日のあれは全部夢だったのだろうかと思うのは、仕方のない事ではないだろうかと翔太は思った。

「あの後死神はどこにいたのさ」
「もちろん眠りに行ったんだよ」
「し、死神も寝るもんなんだ……じゃあ朝いなかったのは?」
「恥ずかしながら、寝坊しちゃったからね」
「……死神も寝坊するもんなんだ……」

何だか色々衝撃的な事ばかりで、翔太はいっぱいいっぱいだった。そんな翔太の肩を、落ち着かせるように軽く死神が叩いてくる。

「まあまあ、その様子じゃ急いで帰ってきたんだろう?まずは落ち着いたらどうだい」
「ああ、うん……そうする」

言われて初めて、翔太は自分がひどく息を切らせている事に気付いた。ごほごほと少し咳をした後、とりあえず鞄をその場に置いてキッチンへと向かう。何か喉を潤すものが欲しいと思ったのだ。
辿り着いた先で冷蔵庫のドアを開けた翔太は、中を覗き込んだ。そしてあるものを発見する。きっと母親が用意してくれた翔太のおやつだ。しかし自分だけ食べるのも気が引けて、翔太は振り返って尋ねていた。

「……死神、死神って食べ物を食べるんだよね?」
「もちろん。昨日のハンバーグはとても美味しかった」
「じゃあ、これ食べる?」
「ん?」

翔太がスプーンと共に手渡してきたものを、死神は不思議そうな表情で見つめる。どうやら初めて見る食べ物のようだ。都合良く二つ並んでいたそれのもう片方を自分用に持ちながら、翔太は死神に教えてやる。

「ふたを開けてそのスプーンで食べるんだよ」
「なるほど」
「スプーンの使い方は……知ってるね」

昨晩、箸を巧みに操りハンバーグを食べていた死神を思い出して、翔太は言葉を止めた。死神は翔太に言われた通り、そのおかしの容器を手に持ちふたを剥がして、中身をスプーンですくい取る。ぷるぷると震えるスプーンの上の物体をしばらく見つめていた死神は、翔太がぱくぱく食べ始めたのを眺めてから自分もそれを口に含んだ。
死神の時間がその時、目に見えるほど固まった。

「し、死神?」
「……これは、これは一体、何の食べ物なんだい?」
「プリンだけど」

比較的小さな容器に入ったそのおかし、プリンは、その柔らかさも相まってすぐに空になってしまう。遅れて食べ始めたはずの死神は、翔太と同じ速さでプリンを食べ終わっていた。

「甘かった」
「甘かったね」
「ぷるぷるに溶けてしまった」
「まあ、そんな感じの食感だったね」
「……美味かった」

しみじみと呟いた死神は、どうやらプリンが相当お気に召したようだった。名残惜しそうにスプーンをくわえる死神を見ていたら、翔太のさっきまでの動揺はどこかへ消えてしまった事に気付いた。甘い物を摂取した事が原因かもしれない。翔太はほう、とひとつ息を吐いた。
この男と会話をしていると本当に、自分がどうしてこんなに慌てているのかとか、どうして死神がここにいるのかとか、そういった事が全て無駄な事のように思えてしまう。それぐらい自然に、この死神はここに存在していた。翔太と同じ部屋の中で、ごく普通にプリンを食べて、翔太と会話をして、まるで普通の人間のようにここにいる。それが不思議だと思った。それとも、不思議な事ではないのだろうか。

「どうしたんだい?」

押し黙ってしまった翔太の様子に、死神がのんびりと尋ねてくる。翔太は少し言い淀んでから、口にした。

「何だか、今のこの状況が不思議なのか不思議じゃないのか、分からなくなってしまったんだ」
「この状況、というと?」
「死神とこうしてプリンを食べているこの状況だよ」
「ふむ」

翔太の言葉に少しだけ考えてから、死神は納得するように頷いた。

「確かに不思議だな」
「だろう?やっぱり不思議だよね?死神と一緒にこうしているなんて……」
「とても不思議な食べ物だ。とろとろのぷるぷるで今にも溶けてしまいそうなのに、ちゃんとスプーンですくえる。しかし口に入れたら甘さとともに溶けてしまう。ああ、この底の黒い液体もまた不思議だ。ほろ苦いようでいて、しかしさらに甘いような、そんな魅力的な味だ。本当に不思議だな、このプリンという食べ物は」
「プリンの事じゃないよ?!」

猛烈な勢いで語り出した死神に翔太は驚いた。どうやら翔太が思っているよりずっと、プリンは死神の心に良い意味でダメージを与えたようだ。空になった容器を持って、死神は翔太に微笑んだ。

「こんなに不思議な存在のプリンも、ここにこうして存在しているんだ」
「えっ?」
「君が不思議に思っているこの状況も、確かにここに存在しているんだよ。不思議なプリンのようにね」

空の容器を持ったままの死神はもしかしたらもう一個プリンを食べたいだけなのかもしれない。今の状況をプリンに例えられて目をぱちくりさせた翔太はしかし、そういうものなのかもしれないと思い出す。
翔太は死神の存在に驚いた。死神はプリンの存在に驚いた。そういうものなのかもしれない。翔太にとって当たり前の存在のプリンに死神が驚いたように、翔太にとって驚きの存在である死神ももしかしたら、誰かの何かの当たり前なのかもしれない。そう考えると、この状況もそんなに不思議なことではないのではないだろうか。
そんな風につい、思ってしまった。
思ってしまったらもう、翔太は驚けなくなってしまった。
死神がソファに座っている事。死神が新聞を読んでいる事。死神がプリンを食べる事。死神が翔太とこうして話をする事。全てがもう、翔太にとって驚くべきことではなくなってしまう。不思議なことでは、なくなってしまう。
……なくなってしまって、いいんだろうか?

「……何か僕、間違っている気がする」
「何が間違っているんだい?」
「ううん、口で説明出来るような事じゃないんだ……」

項垂れる翔太に、死神はあっと声を上げて話しかけてきた。

「そういえば忘れていたよ」
「何を?」

尋ねると、死神は昨日からよく見るあののんびりとした笑顔で、こう言った。

「おかえり、翔太」

少しだけ間を置いた翔太は、自然と口を開いていた。

「……ただいま、死神」

翔太はこの時完全に、死神という存在を受け入れていた。……悔しい事に。

11/03/07



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