月のボールとキツネの子



死神との奇妙な暮らしが始まってから二日三日しか経っていないある日の帰り道。空はもう暗くなり始めていて、所々浮かぶ雲の向こうにはうっすらと丸い月も見えているだろう空の下。友人と別れて一人家路を歩く翔太はふと、耳に何か気になる音が聞こえた事に気づいて思わず足を止めた。するとその音は、小さな人の声だと言う事がすぐに分かった。それは、子どものすすり泣く声だった。

「どうしたのかな……?」

泣き声は小さいながら、途切れることなく翔太の耳に届き続けていた。その声が気になった翔太は、どこから聞こえてくるのか辺りを見回した。車もあまり通らない少し狭い路地の真ん中で泣いている子どもなんて、本当にいるのだろうかと半信半疑での捜索であったが。うろうろと歩き回った翔太は、薄暗い道の隅っこにとうとう音の発信源を見つける事が出来た。
電柱の後ろに隠れる様に、膝を抱えて俯く子どもの頭がそこにあった。

「あの、君、どうしたの?大丈夫?」

しくしくと悲しい泣き声がいつまでもやまないのを見て、翔太は思わず声をかけていた。翔太の声に反応して、子どもが顔を上げてくる。翔太にはその顔を見て、子どもが本当に泣いているのかどうか判断する事が出来なくて戸惑ってしまった。何故なら子どもの顔は、黄色のキツネのお面で隠れていたからだ。
子どもの不思議な姿はそれだけではなかった。子どもが身につけている服は、どうやら甚平であるらしかった。キツネのお面に甚平、これだけ見ればお祭りによくいる格好であるが、春先の今の季節にはあまり似つかわしくないものである。
お面越しに子どもは翔太をじっと見つめてきている。声をかけた以上引っ込みがつかなくて、翔太は慌てて子どもの前にしゃがみ込んだ。

「えっと、迷子?それともこけて怪我でもしたの?」

子どもは翔太の問いかけにふるふると首を横に振った。そうして小さい声で、おそるおそる答える。

「無くしたの……」
「無くした?」
「大切な人から貰ったボール、無くしたの……」

それだけ言いきると、子どもはまた俯いてしくしくと泣き出してしまった。その姿があまりにも悲しそうに見えて、可哀想に思った翔太は思わずその肩に優しく触れていた。その表情は見えなかったがきっとすごく驚いたのだろう、びくりと反応した子どもは再び翔太へと顔を向けてきた。

「無くしたのは、どんなボール?一緒に探そう。早くしないと夜になって、見つけにくくなっちゃうよ」

促すように声をかければ、子どもはしばらく翔太をそのまま見つめてきた。まるでものすごく珍しいものを窺っているかのような沈黙だった。

「僕が、見えるんだ……」
「えっ?」
「ううん。本当に、一緒に探してくれるの?」
「うん、もちろん。それで、どんなボールなの?」
「これくらいの、黄色いボール」

子どもが教えてくれたボールを探すために、翔太は子どもの手を引いて(手を差し出した翔太にも子どもはとても驚いていた)近辺を歩き回り始めた。転がり落ちていないだろうかと溝を覗きこんでみたり、近所の家の庭を覗き見てみたり、近くの公園の茂みを掻き分けてみたり。そうしているうちに、どんどんと視界は暗闇で覆われていった。翔太は心の中で焦った、さすがに夜の影の中、ボール一つ探して回れる自信がなかったのだ。

「見つからないね……」
「うん」

子どもの頭が僅かに下を向く。どうしようかと翔太が悩んでいれば、後ろから声をかけられた。焦る翔太が羨ましく思うような、のんびりとした声だった。

「やあ、誰かと思えば翔太じゃないか」
「え?あ、死神!」

ぱっと振り返れば、大きな鎌を肩に担いだ死神が片手をあげてこちらに歩み寄ってくる所であった。町中を普通に出歩く死神というどこかシュールな光景に、翔太は思わず口を開けてしまっていた。まだ、死神という存在に慣れていない証拠である。

「もうすぐ夜だというのに、こんな所で何をしているんだい?」
「死神こそ何してるの?」
「こっちはただの散歩さ。夕方散歩するのは、とても気持ちが良いものだよ」
「死神が、散歩……」

散歩という事は、本当にそのまま町のあちこちを歩いてきたという事だろう。それをたまたま見てしまい、色んな衝撃を受けた人はいなかっただろうかと変な心配をし始めた翔太に、改めて死神が尋ねかける。

「それで、君は何をしていたんだい?」
「あ……それが、この子がボールを無くしてしまったみたいで、一緒に探していたんだ」
「なるほど」

死神が子どもに微笑みかける。子どもは目の前に現れた凶器を持った得体の知れない男に怯える、様子も無く、ただじっと見つめているだけだった。子どもだからこその純粋な好奇心によるものだろうかと翔太は少しだけ羨ましく思った。

「それで、見つかったのかい?」
「見つからないんだ、それが」
「それじゃあ今までずっと一緒に探してあげていたのかい」
「うん、まあ」

翔太は頭をかいて途方にくれた。死神とこうして話している間にも、辺りは薄暗くなっていた。道の脇にぽつぽつと立っている電灯もすでに明りをともしている。このままこの子どもを連れて外にいる事は躊躇われた。しかしあれだけ泣いていた子どもにボールを諦めろと声をかけるのもなかなか出来ない。
翔太が悩んでいる間に、死神は翔太の横で佇む子どもをじっと見つめ、そして空を見上げた。何故空を見上げているのだろうと翔太も思わず顔を上げれば、目の前には夜空になりかけた空が広がった。すでに星を浮かべている藍色の空には変わらず雲が浮かんでいて、その向こうに薄ぼんやりと月が見えた。きっと、満月だろう。

「大丈夫だよ」
「えっ?」

翔太が顔を戻せば、死神もすでにこっちを見ていた。そうして微笑みながら、頭上を指差してみせる。

「もうすぐ見つかるよ」
「な、何言ってるのさ、空なんか指差して……」
「空を見たら分かるよ」

分かるよ、と言われても分からないものは分からない。翔太が納得のいかない表情でもう一度空を見上げてみれば、目の前でそれは起こった。
雲に隠れていた月がちょうど、顔を出したのだ。

「ああ、やっぱり満月だ」

何一つ欠ける事無く浮かぶ月は、暗い電灯が立ち並ぶ路地をも明るく照らした。その光を浴びて、子どもが一歩前に進んだ。

「あった」
「え?」

翔太は子どもを見て、そして驚いた。子どもの手には、いつの間にか黄色いボールが抱えられていたからだ。今まで子どもは翔太の隣から動いていなかったはずなのに、どうやって手に入れたのだろう。いや、あれだけ探しても見つからなかったボールが、一体どこから現れたというのだろうか。翔太がつらつらと考えている間に、子どもは翔太の目の前に立っていた。

「一緒に探してくれて、ありがとう」
「あ、いや、別に……結局僕は見つけられなかったし」
「ううん。一緒に探してくれて、寂しくなかったから」

その時翔太は子どもが笑ったのだと思った。相変わらず子どもの表情はキツネのお面に隠されたままであったが、それでも今笑ったのだろうと感じた。そしてそれはきっと、間違っていないはずだ。子どもがとても嬉しそうにボールを抱きしめたからだ。

「これで、帰れる」
「あ、それなら送っていこうか。もうこんなに暗いから一人じゃ危ないよ」
「いい。おうち、そこだから」
「そこ?」

子どもが指差した方向を見た翔太は、目を丸くした。そこには、生い茂った木々に半ば隠されたように立つ小さな鳥居があるだけだった。きっと奥に進めばお社があるのだろうが、それだけだ。人が住むような場所は無かったはずだ。子どもはそちらに向かって歩み、途中で翔太を振り返った。

「本当に、ありがとう。今度は一緒に遊んでね」

それだけ言うと子どもは駆け出し、あっという間に鳥居の向こうへと消えてしまった。その時翔太は見てしまった。まるて月の光に導き出されたかのように金色に輝いていた、子どもの背に生えた動物の尾のようなものを。

「この神社は何を祀っているのかな」

ゆっくりと翔太の隣に歩いてきた死神が鳥居を見つめる。翔太は固まる頭で思い出していた。誰かに聞いた事がある、この小さな神社は、この近くにある大きな神社の子分のようなものなんだとか。

「確か……近くの月の神様の神社、のお供を祀っているって聞いた事あるけど」
「お供か」
「うん、僕もあまり入った事がないけど、キツネの像がたってるとか……」

そこまで言って、翔太はさっきの子どもの正体を思い浮かべていた。現実的にとても有り得ないその想像に、思わず声を上げる。

「いやいやいやいや、無い、絶対無い!そんな、神様が目の前に現れたなんて、神様と手握ったなんて!」
「ああだからあの子の背中にはキツネのしっぽが生えてたのか」
「無い!そんなの見えてないっ!」

必死に否定する翔太を、死神はどこかおかしそうに眺めていた。その余裕しゃくしゃくな様子に翔太は八つ当たりのような怒りを覚えた。自分はこんなに驚いているのに、死神はどうして驚いていないのだろう。そこで翔太は、死神自体も驚かれるべき存在だと言う事を思い出した。

「そんなに驚く事ないだろう。この神社が昔からあるものなら、あの子は昔からここにいたんだ。たまたま今日君が初めてあの子を見れたってだけだよ」
「な、何で?」
「さあ。ただ、前にぼくは言ったはずだよ」

死神は家に向かって歩き出し始めながら、翔太に言った。

「君が見ていないだけで、この世界に不思議な事が沢山溢れているんだってね」

そのままのんびりとした速度で歩いていってしまう死神を、翔太はしばらくぽかんと眺めていた。それから徐々に、ふつふつと激情が沸き起こってくる。その衝動をぶつけるために、翔太は慌てて死神に追いつくために駆けだした。

「それって、死神のせいで僕が変なものを見始めたって事じゃないのか―!」
「あははは」
「笑うなー!」

鎌の刃を避けてその背中に手に持っていた鞄で攻撃しながら、しかし翔太は自分がそこまで怒っていない事に気づいていた。
少なくとも、さっきのキツネの子どもと今度また月の日の夜にでも会ったら、一体どんな遊びをしようかなとか考えるぐらいには。

11/03/28



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