猛烈な息苦しさを感じてハルは目を覚ました。窓から零れ落ちる光で、今の時間が朝なのだと理解する。次に何故こんなに息苦しいのか、その謎をつき止めるために首を巡らせたハルは、突然目の前に現れた美しい女の寝顔に思わず息を止めていた。そうしなければ、声を上げて驚いていたからだ。それは、カエデの顔だった。
ひっそり深呼吸をして、改めてハルは自分の今の状態を確認した。ハルは今、ダブルベッドに横たわっている。その横にはカエデが眠っていて、昨晩寝る時は確かに両端に寄ったはずなのに何故か今はど真ん中でハルに急接近している状態だった。眠っている間にカエデが徐々にこちらに寄ってきたのだろうか、そのせいでハルの足は半分ずり落ちている。その足にしがみ付いて床に寝ているのがヘリオだった。ヘリオはベッドから落ちた訳では無く、ベッドに入りきらなかったのであぶれて最初から床に寝ていただけである。そしてその小さな子どもの身体のためにベッドの真ん中に寝ていたはずのハクトは今、ハルのお腹に寄り掛かって分厚い本を読みふけっていた。
原因判明である。

「……おい」
「おおハム、起きたか。しかしまだ少し早い時間じゃぞ」
「あんたのせいだよ、早く退いてくれ!それと今まで突っ込み忘れてたけど俺の名前はハル!そんな美味そうな名前じゃない!」
「そうだったか、その頭の色がちょうどハムのような色だったから、覚えやすい名だと思ったのじゃが」
「こ、こいつ……」

よっこいしょとハクトが退いてくれたので、うーんソディちゃん待ってよーなどと謎の人物の名前を呟くヘリオを蹴り解いて、ハルはむくりと起き上がった。改めて部屋の中を見渡すと、とても狭い。こんな狭い宿の部屋に四人も泊まるのはやっぱり無理があったかと反省するハルだったが、昨日旅立ちを決意しハクトの細長い家を出た時にはもう日も落ちていて、宿もほとんど満室状態だったのだから今回は仕方がなかった。この部屋よりもハクトの本が満載に詰まった家の中の方が狭かったのだから、一泊するには選択肢はこれしかなかったのだ。
腕を頭上に上げて思いっきり伸びをしたハルは、なおも本を読み続けるハクトを見た。こんな朝早くからよく本なんて読んでいられるものだ。

「ハクトさん、もしかして寝てないんじゃないだろうな」
「いくらわしでも睡眠は必要じゃ。ただ年寄りは朝が早い、それだけの事じゃよ」
「年寄り……いや、いい。俺はもうつっこまない」

子ども魔法使いへのつっこみを放棄したハルは、ふと自らの横に目を落とした。そこにはすやすやと眠るカエデがいた。宝珠の謎を教えて貰ってからこうして改めて見ても、最早ハルにとってカエデはカエデ以外の何者にも思えない。確かにカエデはあの不思議な宝珠から現れた守護騎士ではあるが、こうして安からに眠っている姿を見ていると、ちょっと世間知らずな普通の女の子にしか思えないのだ。

「……って、そういや守護騎士って奴もこうやって普通に寝るもんなんだな」

しみじみと呟くハルに、ハクトが本から少し顔を上げて答えた。

「お主に倣っておるのじゃろう」
「へっ?」
「人の姿じゃからな。同じ人の姿であるお主を真似て学んでおるのじゃ。おそらく、な」

ハクトの言葉は一見訳が分からないものであったが、ゆっくりと瞬きしたハルは今までの事を思い出していた。僅かに気になっていたちょっとした事が、ハクトの今の言葉によって頭の中に蘇ってきたのだ。ハルは少しためらって、それを口にした。

「ハクトさん、その、聞いてもいいか」
「何じゃ」
「この、宝珠の守護騎士って……持ち主によって姿が変わったり、するのか?」

ハクトは本をめくる手を完全に止めて、ハルをじっと見つめてきた。朝日に光る金色の目が、ハルの心を見透かすように見通してくるので、とても居心地が悪い。魔法使いとは眼力にも魔力がこめられていたりするのだろうか。
しばらく沈黙した後、ハクトはハルの問いに答えるために口を開いた。

「お主も薄々感づいていたようじゃが、その通り。守護騎士は宝珠の宿主のイメージによってその姿を変える。宿主が変われば、もちろん守護騎士の姿も変わるのじゃ」
「やっぱり、そうなのか……ずっと昔から守護騎士やってる割には色んな事に慣れなさすぎだとは思っていたけど」
「慣れないのは当たり前じゃな、今の姿はもちろん初めてのものだろうからのう」
「もしかしたら、人の姿自体が初めてなのかもしれないな」
「それは……」

ハルの言葉にハクトは何かを言いかけた。しかし途中まで出かかった言葉を、まるで口に出してはいけないもののようにとっさに飲み込んでしまう。貫くような真っ直ぐな光を常に零していた金色の瞳がその時初めて、迷うように彷徨った。ハルが怪訝に思っていると、カエデを見た後ようやく目を合わせてきたが、

「そうかも、しれぬな」

発した言葉はそれだけだった。その後はまた本に目を戻してしまう。何だか釈然としないハルだったが、結局ハクトが本当は何を言いたかったのか、聞けないままであった。




カエデは猛烈に感動していた。場所は四人で泊まった狭い部屋の宿の隣に立つ、これまた狭い料理屋だった。宿の隣だけあって旅人御用達の料理屋のようで、朝早くから開いている有難い存在だ。ハル達はとりあえずそこで朝食を取っていた。そこにカエデの感動は待っていた。

「ハル、大変な事が起こった」
「どうした?」
「パンにこれをつけただけで、あんなに美味しいパンがさらに美味しくなった。これはきっと魔法の調味料なんだ……今、私の口の中で魔法が広がっている……」
「イチゴのジャムがそんなに気に入ったのか?甘いの好きなのかねお前は」

最早その反応に慣れたハルはカエデのパンに新たなイチゴジャムを塗りたくってやる。今度旅人の知り合いに野イチゴのジャムの作り方でも教えてもらおうかなどと考えるハルの頭の中は、完全にカエデの保護者だった。今の所本人に自覚は無い。

「うーん大雑把な味付けで見た目もちょっと質素すぎるけど、それがまた旅の情緒を引き出していて良い感じだねえ」

生意気な事を言いながら食事をするヘリオはしかし、その食べ方はナイフとフォークを巧みに使ってお上品なものだった。その容姿も相まって一見するとどこかの貴族がお忍びで旅行しているように見えなくもない。もちろん内面を知っているハルはそんな事を微塵にも思わないが。

「ヘリオ、お前も今まで旅してきたんだろ?こんな料理屋で飯食った事ないのか」
「いやー俺様実はほとんど文無しでおうちから出てきた身なんで、極力節約生活続けてきたんだよね」
「へー、案外お前も苦労してきたんだな」

文無しでの旅の辛さはハルにも痛いほどよく分かる。ちょっとだけ同情していると、そうなんだよっとヘリオが身を乗り出してきた。

「だからさ、行く先々の町で綺麗なおねーさんとか捕まえて奢ってもらったりして食いつないでたわけ!やー辛かったなー口説き落とす子を毎日一人に絞らなきゃならないあの日々、俺様この美貌だから複数の子に同時にアプローチされる事もあって……あっお金持ちのご婦人が相手の時はフルコース食べさせて貰ったりした事もあるよ!」
「ああ、やっぱりお前死ね」
「うわあい朝っぱらからヒメの冷え冷えとした視線貰っちゃった!ゾクゾクくるぜ!」

朝から一人盛り上がるヘリオとは対照的にハルの機嫌は急降下した。つまり今のヘリオも文無し同然という訳で、今食べているこの朝食代もきっとハルが払うしかないのだろう。ただでさえカエデがいるというのに、もう一人分払うとなるとさすがにきつい。とっさに助けを求めるように本を読みながら優雅に食後の緑茶を飲んでいたハクトを見るが、視線に気づいて顔を上げたハクトは一瞬のうちにハルから顔を逸らしてしまった。逃げられた。
ハルがどんよりとした気持ちのまま頭の中で財布の中身を思い出している間に、お皿の上を綺麗にしたヘリオがふと尋ねてきた。

「そういえば、俺様達これからどこに向かうの?目的ははっきりしたけど、肝心の目的地はまだ聞いてないんだけど」
「あ、ああ、そういえばそうだな……ハクトさん、その宝珠を作った人間の子孫ってどこにいるんだ?」

尋ねられたハクトは、緑茶を一口ずずっと音を立てて飲んだ。背が低いせいで一生懸命に手を伸ばさなければ湯呑に届かない姿が可愛らしい。声には出さないが。

「東じゃ」
「東?」
「この地からずっと東に向かった先に宝珠発祥の地とされる場所がある。そもそも宝珠の伝承自体が主にここから東の方面に広がっているのじゃ。元々伝承があまり伝わっていないこの辺りで宝珠が見つかる事が珍しい事なのよ」

ハクトはちらりとハルの方を見た。おそらくハルが持っている緋の宝珠を見たのだろう。

「その物珍しさのためにわしもこの地へやってきたのじゃがな」
「はいはい、俺が拾って悪かったですねーっと」
「東かあ、東って具体的に何があるの?」

ヘリオが首を傾げる。確かに東、だけでは具体性に欠ける目的地だ。もう一口お茶を飲んだハクトが、ビシッとハルを指差した。

「ハム、地図を持っておるじゃろう、出せ」
「持ってるは持ってるけど、今はこの辺りの地図しか持ってな……って名前!ハムじゃねえハルだって言ったばかりだろ!」
「そうじゃったか?悪いのう年寄りは物忘れが激しくてな」
「くそ……絶対わざとだ……」

まだまだ文句は言い足りないが、これ以上ぶつくさ言うとあの読んでいる本から魔法が飛び出してきそうで怖かったので、ハルは諦める事にした。
テーブルの上の皿を横に避けて、中央に地図を広げる。一目見て分かるほど、地図のほとんどは森で覆われていた。

「えっ何これ、森しか描かれてないよ?」
「この辺りは森ばっかりなんだよ、ここに来るまでも森を抜けてきただろ」
「地図で見ると、行くべき方角はこちらじゃな」

椅子の上に乗り上げて、ハクトが地図に指を突き立てる。そうしなければ身長的に地図に届かないのだ。ハクトの小さな指は地図に描かれたこの町から、まっすぐ東の方へ辿る。その行き先もやはり森だった。途中に比較的大きな町があるようだが、それだけだ。まあ町があると言う事は道もあるはずなので、それが分かっただけでも良し、だろう。
ヘリオが頬杖をついたまま、どこか不服そうに口を尖らせた。

「それじゃ、しばらく同じような景色が続くわけね。あーあ俺様の美的感覚がにぶっちゃいそう」
「それなら今すぐこの旅を下りてもらっても良いんだが?」
「あっうそうそ、これぐらい我慢するする!」
「……ま、俺だって森ばっかりよりは絵になる様な景色に出会いたいさ、金銭的に考えてな」

ハルが重い重い溜息を吐いた。最早ハルの頭の中は財布の中の事で一杯だった。この人数であとどれぐらいもつだろうか、それが気がかりだ。今幻想的な風景にでも出会えたら、売りさばくために何枚か描く覚悟は出来ていると言うのに。やっぱり先日の遺跡の絵が描けなかった事が悔やまれる。
乗り出した身体を引っ込めてお茶を飲み干したハクトが、鬱々としだした空気を振り切るようにパンと音を立てて本を閉じた。

「さあ、そうと決まれば出発するぞ。別な景色に出会いたければ、早々に森から抜ける事に努めるのじゃな」
「確かにここでこうしてても始まらない、行くか」
「おっし出発ー」

ぞろぞろと腰を上げる中、ハルはふとカエデを見た。そういえばさっき話している所に一切口出ししてこなかったな、と思っていれば、その理由はすぐに分かった。
カエデはまだ、イチゴジャムパンに感動していたのだ。むしろジャムそれだけを味わっていた。

「すごい、パンがなくてもこんなに美味しい、何て強力で恐ろしい魔法なんだろう……」
「おーいカエデ、帰ってこーい」
「ハル?何かあったのか」

どれだけトリップしていても、ハルが呼びかければカエデは帰ってくるようだ。きょとんとした赤い瞳で見つめられて、ハルの身体から力が抜ける。

「何か、お前を見てると色々悩んでいることがどうでも良く思えてくるな……」
「ハル、悩み事があるのか?私に解決出来る事があれば、何でも言って」
「……いや、いいわ。それよりもう出発するぞ」
「分かった」

こくりと頷いたカエデは素直に立ち上がる。その手が少しだけ名残惜しそうにジャムが乗った皿から離れた。それだけだ。確実に今までのハル達の会話を聞いていなかったはずなのに、何も尋ねることなくハルに従おうとするカエデにハルは拍子抜けだった。聞いていなかった様子を見て色々説明する心積もりをしていたというのに。

「聞かないのか?」
「何を?」
「いやお前聞いてなかっただろ、これからの行き先とか」
「私はハルの行く所ならどこにでも行くから、大丈夫」

いとも簡単に頷くカエデに、何が大丈夫なんだかとハルは呆れた。文句も言わず疑わずにただひたすらハルの後ろをついてくるこの様子は、どれだけ図体がでかくても何だか幼いヒナのように思えてしまう。こんな調子で大丈夫なのだろうかと、逆にハルが心配になるぐらいだ。

「何か、お前の行く末がどうなるのか気になって仕方が無いな……」
「私はハルと一緒に行く、どこまでも」
「わ、分かった、分かった!……はあ。そういう事じゃ、無いっての」

宝珠の事、お金の事、目的地の事、そしてカエデの事。ハルの頭を悩ませるものは、増えるばかりだ。

第二話 力の覚醒

11/02/27



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