町から少し歩けば、すぐに周りの景色がまた深い緑一色の見慣れた森の風景へと戻った。次の町へと続いているはずの道はしかし今までのものより狭く、馬車が一台やっと通れるだろうと思われる道幅だ。いくら目を凝らして見ても、この道を自分たち以外に進む者はいない。まあ、それは日常茶飯事なのだが、ハルは買い出ししていた時に店番のおばちゃんに言われた言葉を一人思い出し、少々気が滅入っていた。
そんなハルの様子に真っ先に声をかけてきたのは、カエデだった。

「ハル、何だかあまり元気がない」
「あ?ああ……さっきおばちゃんに、最近この辺は魔物が出るから気をつけろって言われて、気になってな……」

ハルはカエデとヘリオと三人でいた時に小型の魔物に襲われた事を思い出していた。この森の中を進めば、もしかしたらまたああいう奴に襲われるのかもしれない。普段の一人旅をしていたハルだったらそんな危ない噂を聞けば、すぐに目的地や予定を変更して安全な道を進んでいる所なのだが。今や向かわなければならない方角と、一人旅の時のように気楽に動けないせいでそれも叶わない。
重苦しい溜息を吐くハルに対して、カエデはまるで勇気づけるように力強く頷いて見せた。

「それなら大丈夫、何があってもハルの事は私が守るから」
「あー、それは有難いし、お前の強さは知ってるけど、やっぱり素手だしなあ。もっとお金があればさっきの町で武器でも買ってやれたんだが」

素手で魔物持ち上げて勢いよく投げつけていたカエデだったが、あれより大きな魔物に出くわしたらその限りではないだろう。カエデがこの調子であれば、相手がどんなに巨大な敵であってもそのまま突っ込んで無茶しそうなので、それがハルの頭を悩ませる問題の一つでもあった。当のカエデはそんな心配をされているとは少しも思っていないようで、ハルの様子に不思議そうに首を傾げている。
そんな二人の様子に、器用に歩きながら本を読んでいたハクトが顔を上げて視線を寄こしてきた。

「そういえばハムよ。お主は宝珠からどんな力を得たのじゃ」
「は?」

まったく意味が分からなくて思わずハルが間抜けな声を上げる。宝珠から力とは、一体どういう意味だろう。守護騎士、つまりカエデの事だろうか。しかしそれならどんな力なのかはカエデを見ていればおのずと分かる事だ、わざわざ聞く事でもない。答えが見つからなかったハルは、諦めてハクトを見た。

「力って、何の事だ」
「おお、そうじゃったな、お主は宝珠の事を何も知らんのじゃったな、忘れておったわ」
「くそーっ」

ため息交じりのハクトの言葉にハルが悔しそうに拳を握りしめる。宝珠の知識なんて一般的ではない事を知らなくても仕方がないとは思っているが、それでもやっぱり呆れられると悔しいのだ。
地団太を踏むハルにかなり大げさに肩をすくめてみせたハクトは、広げていたページを閉じた。腰を入れて説明してくれるのだろう。

「宝珠は宿主から安定したエネルギーを得るために、守護騎士に守らせる他に宿主本人にも自らの身を守れるように力を分け与えるのじゃ」
「力を分け与えるって……一体どんな力を?」
「まあ普通は、魔力じゃな」
「魔力?!」
「うっそ俺様それ知らなかった!宝珠持つと魔法使えるようになるんだ!」

ハルと、そして横から入ってきたヘリオが驚きの声を上げる。そんな二人に、ハクトはどこか呆れた目を向けた。

「まったく最近の若いもんときたら……魔力とは大なり小なり人間なら誰しも持っておるものじゃ。宝珠は本来持っている能力に力を貸し与えるにすぎぬ。つまり元々持っていない能力は与えられないと言う事じゃ」
「誰でも魔力持ってるなんて……そんなの初耳なんだが」
「人間がその事を忘れているだけじゃ。まったく……それで、ハムは宝珠からどんな力を貸し与えられたのだ」
「そ、そんな事急に言われてもな」

金色の瞳にじっと見つめられて、ハルは慌てて自分の全身を見回した。宝珠を手にした時から今まで、特にこれといって特別な力を感じた事はない。本当に宝珠から力を分けてもらえているのだろうか。疑問に思いながら手の平を見つめてみるハルとは対照的に、カエデが瞳を輝かせて分かったと声を上げた。

「ハルはやっぱり魔法使いだ。甘いものを沢山私に食べさせてくれたり、髪をあっという間にひとまとめにして見せたり、風景とそっくりそのままの絵を描いたり、今までにも沢山魔法を使ってきた。間違いない」
「それらは明らかに魔法じゃねえっつーの!」
「絵?ヒメってば絵なんて描くの?」

カエデの言葉にヘリオが興味を持ったらしい。ややこしい奴に興味を持たれてしまったとげんなりしながら、それでもハルは頷いた。

「これでも絵を描くのが趣味なんだ。たまにその絵を売って生活の足しにしたりな」
「あーだからさっき絵になる様な景色に会いたいとか言ってたの。美の貴公子たる俺様としては非常に興味あるねえ、ヒメの描く絵というものに」
「これだ」

おもむろに懐から一枚の紙を取り出してヘリオに差し出したのは、ハルではなくカエデだった。驚いたハルが紙を覗きこめば、そこにはカエデと出会った日に現実逃避のために描いたあの森の中の風景があった。初めてハルの絵を見たカエデはやたらと感動していたが、あの後ずっとこの絵を持っていたらしい。そんなに力を入れて描いたものではないのに、とハルは少々恥ずかしくなった。

「カエデめ……こんなものをそんな大事そうに仕舞い込みやがって」
「へーっ綺麗じゃん!正直ヒメの事舐めてたよ、なるほどこれなら確かに売れてもおかしくないね」
「お前にそうやって普通に褒められると気持ち悪いな……」

手渡された絵を興味深げに眺めるヘリオに憎まれ口を叩きながらも、やっぱり褒められればそれなりに嬉しい。頭を掻いて照れをごまかそうとするハルの横で、ハクトも背伸びをして絵を覗きこんでいた。少し意地悪して手の位置を上げようとするヘリオの足を思いっきり踏みつけて、とうとうハクトはその手の中に絵を入手する。

「ふむ、なるほど。見事なものじゃ」
「ってえ!踵で思いっきり踏まれた!この痛みとチビに踏まれたという屈辱、でも胸がときめくこの気持ちは、一体……?!」
「ただの変態だ。ハクトさんもそんなに見るなよ、そこまで評価されるような絵じゃねえよ」

ハクトから絵を取り戻そうとするが、ひょいと避けられてハルの手が宙を掴む。ハクトは悔しそうなハルと絵を交互に見比べて、何やら思案しているようだった。

「これかもしれぬな」
「何がっ」
「お主に与えられた力じゃ」
「え……?」

力って、画力貰ったって事?と目で訴えればハクトは首を横に振った。違うらしい。

「人が魔法を使う時、その媒体には身体によく馴染む、親しんだ物の方が魔力を込めやすい。わしが慣れ親しんだ本から魔法を操るのと同じじゃ。絵を描くのが趣味だと言うのなら、ハムは絵を媒体にして魔法を操れるかもしれぬな」

ほれ、とハクトから絵を返されたハルは、それを呆然と眺めた。ハクトの話に、頭がついていかない。だって信じられなかったのだ。今の話通りならばつまり、ハクトが本から稲妻を出してみせたように、ハルにも絵から稲妻が出したり出来ると言う事になるではないか。そんな事、到底ハルには出来そうに思えなかったのだ。
ハルが棒立ちになっている間、ハルの代わりに何故か得意げに胸を逸らしていたのは、カエデだった。

「やっぱり、ハルの絵は魔法だったんだ」
「いや、何でお前が偉そうなんだよ」
「まあその絵は魔力が込められていないからただの普通の絵じゃ。魔力を込めながら絵を描く事で初めて魔法は起こるじゃろう。……ふむ、何か試してみるか」

頷いたハクトは、ハルの腰を景気づけにバシッと叩いた。きっと、肩には腕を伸ばさなければ届かなかったからだろう。

「と言う事でハムよ、今すぐ絵を描く道具を出すのじゃ」
「はあ?今ここで描くのか?!ただの森の中の道じゃないか!」
「ちょうどいいんじゃない?こんな人気のない森の中、魔法の練習に最適じゃん!」

にっこり笑うヘリオがそう言うが、つまりハルの魔法大失敗もありうると暗に語っている。しかし魔法なんてまったく未知のものなのでそれに反論出来ず、ハルは無言で絵描き道具を荷物の中から取り出した。絵の具、はもったいないのでとりあえず鉛筆を持ち、スケッチブックを広げる。どこかに腰を落ち着けたいが思いっきり道の上なのでそれを断念し、立ったままハルはハクトを見た。

「それで?一体何をどうすれば魔法なんて出せるんだ」
「簡単じゃ、魔法を起こそうと考えながら絵を描くだけじゃ」
「そ、それだけか?」
「本来ならもちろん魔法の特訓が必要じゃ。だが宝珠の力を借りてる今なら、それだけで魔法が発生するじゃろう。おそらくな」
「本当かよ……魔法を起こそうと考えながら、ねえ」

ハルは困り果てたようにため息をついた。まず一体、何を描けば良いのか思いつかないのだ。ハルは見たままのものを描くのが得意だ。逆に言えば、見てもいないものを想像で描くのは苦手なのである。思い悩むハルに、ハクトが助け船を出した。

「そうさな、魔法使い見習いがまず一番最初に覚える魔法と言えば、炎を起こすものが多いかのう」
「炎、か」
「後は対象物を決めておくと良い。狙いを定めて炎を発動させるのじゃ」

対象物、と言ってもここは森の中だ。むやみやたらに炎を起こしてしまえば火事になってしまう。きょろきょろとあたりを見回したハルは、ある一点で視線を止めて、絵を描き始めた。なるべく忠実に思い出しながら、炎を描いていく。ハルが狙いを定める方向には……呑気な顔で、こちらの様子を見つめる金髪の男が。

「……え?あの、ヒメ?何で俺様の方を見て絵描いてるの?」
「ヘリオ動くな、あと喋るな、気が散る」
「そうじゃ、狙いから外れたらどうするつもりじゃエムオ」
「なあチビそれ俺様の名前?俺様の名前なのそれ?もはや原形留めてないんだけど?俺様がドMとでも言いたい訳?人に対してそんなあだ名失礼じゃないの否定は出来ないけど!」
「ハル、ドMって何だ?」
「あ、カエデ様それはね……」

余計な事をのたまいそうになったヘリオだが、その前にハルの絵が完成した。鉛筆で一生懸命思い出しながら描いた炎の絵が、スケッチブックの上に出来上がる。迷って火の玉のような形になったが、それが本物の炎になって飛んでいくイメージを頭に常に思い浮かべながら今、ハルが手を止める。その瞬間、真っ黒なはずの鉛筆の線が、光ったように見えた。

「えっ?!」

ハルが驚きの声を上げたのと同時であった。何の変哲もないスケッチブックから、まさにハルがイメージしたそのままの火の玉がぽんと現れた。目を見開くハルの目の前に浮かび上がった火の玉は、ハルのイメージしたそのまま、火の粉を散らしながら真っ直ぐ空中を飛んでいく。そう、ヘリオに向かって。

「うわあーっマジで来たーっ!」

さすがのヘリオもその場から横に飛び退いた。ヘリオめがけて飛んだ火の玉は、ギリギリの所で当たる事が出来ずそのまま地面に激突し、ぶすぶすと音を立てて消えていった。それをハルは目を丸くして見つめていた。
今確かに、絵の中から炎が現れた。炎と言えるような立派なものではなかったが、それでもハルの絵の通りの火が目の前に実際に現れたのだ。ただハルがイメージしながら描いただけの鉛筆描きの絵から、本物の火が。
ハルは今、人生で初めての魔法を、使う事に成功したのだ。

「ハル、今のは魔法だ、ハルの絵から魔法が出た、確かに出た」

傍に寄ってきたカエデがハルの服を引っ張る。その衝撃にぱちぱちと瞬きをしたハルがカエデを見上げれば、そこにはきらきらと輝く生きた緋の宝石があった。その赤が、今しがた己の出した炎と被る。ああ、この色は炎にもよく似ているな、とハルは思った。

「ふむ、初めてにしては上出来じゃろう。まあ宝珠の手助けもあったからな」

ハクトも感心したように頷いてくれた。そこでようやく初めて、ハルはどっとため息をつき、笑顔になった。じわじわと自分が魔法を成功させたのだという実感がわいてきたのだ。正直今でもさっきの火の玉を自分が出したなどと信じられない思いであるが、確かにこの絵から魔法を起こした事には間違いない。それが素直に嬉しかった。

「俺でも魔法が使えるもんだったんだなあ。ほんの少しだけど、宝珠を手にしてみて良かったなんて思ったよ、いや本当にほんの少しだけどな」
「ほっほ、これから鍛錬を積めばもっと大きな魔法も操れるようになるかもしれぬな」
「それじゃあハルは魔法でいつでも冷たいアイスを取り出す事が出来たり、魔法で山のような甘いジャムを出したりする事が出来るようになるんだ……ハル、すごい」
「そんなお前に都合の良い魔法出来るかっ!」

ハルとカエデとハクト、三人でわいわい話をしていると、地面からじっとりと恨めしそうな視線を感じた。飛び退いたまま地面に伏せていたヘリオだった。

「ちょっとヒメひどいんじゃない?いくら俺様の身体が他の凡人より丈夫でもさすがに炎は熱すぎるでしょ」
「あ、ああすまないヘリオ、まさか本当にお前めがけて飛んでいくとは思わなくて……」

いくら変態でうっとおしくても、さすがに炎で焼こうとしたのは申し訳なく思ったハルはヘリオを助け起こしてやった。痛みが快感とか笑顔で戯言を言うヘリオでも火傷ばかりはその限りでは無いらしい。むしろ炎にも喜んで突っ込んで行かれる方が恐ろしい。
ハルの手を借りて立ち上がったヘリオは、唇をとがらせながらも特に怒った様子では無かった。

「まあ当たらなかったから良いけどー。それより本当に魔法が使えたじゃん!ヒメってばカエデ様はゲットするし魔法は使えるしで羨ましすぎ!俺様も練習すれば魔法ぐらいは使えるかな」
「魔法を使うには少なからず知性が必要じゃ、エムオに出来るとは思えんな」
「さっきからこのチビ俺様の事コケにしすぎじゃない?何?俺様のこの美貌を羨んでるの?まあこれだけチビなら顔良し育ち良し性格良しの完璧超人な俺様を羨んでも仕方な……ひぎゃーっ!」
「お前らこんな森の中で喧嘩するなよなー」

遠慮なく本から鞭みたいなものを呼び出してベチベチ叩きだすハクトと叩かれるヘリオに声をかけながら、ハルはスケッチブックに視線を落とした。そこには、どこか煤けた火の玉の絵が残ったままだった。この絵が本物の炎になっただなんてまだ夢のようだが、これは確かに現実である。
絵の表面をそっと撫でたハルの表情には、あれだけ宝珠を嫌がっていた割には、まんざらでもない笑みが浮かんでいた。

そう、そうして満足していたハルは、だから気づかなかった。
周りに広がる森の様子が、少しずつ変化していた事に。

11/03/18



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