その異変に一番早く気付いたのは、カエデであった。自分の描いた絵をしげしげと眺めるハルの袖を不意に引っ張り、それを知らせた。

「ん、どうしたカエデ?」
「ハル、何か変だ」
「変?何が変なんだ」

警戒した様子で辺りを見回すカエデにならって、ハルも生い茂る木々を見渡した。そうして確かに、違和感を覚える。何かがおかしかった。しばらくそれを見定めるように無言で考え込んだハルは、何となくだが思い当る。

「静かだ……」
「カエデ様、ヒメまで、どしたの?静かって?」
「森が静かなんだよ。鳥の鳴き声さえ聞こえない」

一人呑気な顔をしているヘリオは、ハルの言葉に耳を澄ませてみた。ずっとここまで旅をしてきたハルには分かる、一見誰もいないように見える森の中には、実は様々な音が響き渡っている事を。近くに住む小動物の鳴き声だったり、遠くを飛んでいく鳥のさえずりだったり、森の中に潜む確かに何かが生きている音が、途切れることなく鳴り響いているものなのだ。しかしそれが今は、聞こえないのだ。
ハルの背中を、嫌な汗が伝い落ちていく。とても良くない予感がした。

「ハム、お主町を出る前に確か注意を受けていたな」

古びた本の背表紙を撫でながら、ハクトが尋ねかけてきた。その瞳は油断ならない金色の光を帯びていた。ハルは慌てて思い出す。

「ちゅ、注意って……ああ、通りかかりにおばちゃんに言われた事か」
「何と言っていたかの」
「えっと、確か、最近この辺は魔物が出るから気をつけろ、って……」

自分で言いながらハルの顔色は青くなっていった。つまりは、そういう事だというのだろうか。妙に静まり返った森の理由は、危険なものから遠ざかるために生き物たちがこの辺から一斉に逃げ出したため、だというのか。そう、逃げ出さなければいけないほどの危険な、魔物から。
言い終えた瞬間、ハルはスケッチブックを抱えたまま意味も無く飛び退いた。

「嘘だろ、昨日も魔物に襲われたばっかりだって言うのに!」
「何じゃすでに襲われておったのか」
「そうだよその時はカエデが追っ払ってくれたけど!だけどこんな連続で襲われるなんて冗談じゃねえぞっ!」
「ハル、ハル。また私が追い払うから、大丈夫」

だから落ち着けとその緋色の目で語る落ち着いたカエデを見ていたら、無駄に焦る自分が何だか恥ずかしくなってハルは少しだけ心を鎮めた。そんなハルの様子に、ヘリオも笑い声を上げる。

「まったくヒメったら本当にビビりだねえ」
「う、うるさい!」
「確かに魔物は怖いけどさ、もっと男らしく堂々としなよ。そう、この完璧超人たる俺様み」

たいに、と続くであろうはずだったヘリオの言葉は、何か巨大なものが一瞬のうちにヘリオのいた空間ごと薙いだせいで、途中で途切れてしまった。目の前で起こったそれを、ハルはカエデに腕を掴まれ勢いよく後ろへ引っ張られながら呆然と見つめた。カエデが引っ張らなければ、あの風の塊にハルも巻き込まれていたかもしれない。そうして考えられるようになったのは、抵抗する間もなくぶっ飛ばされたヘリオの身体が、木と木の間の向こう側へ消えて見えなくなってしまってからだった。
ハルは声を上げようとして、自分が今まで口を開けたままでいたこと、声を失って驚愕していた事に気付いた。

「なるほど、この妙な静けさはこいつのせいじゃったか」

意外と身軽にハルとカエデの元へ同じように飛び退いていたハクトが前を見据えたまま呟いた。
ハルの視界の隅に、凶悪な黒い塊がいる。あえて動物に例えるなら、その姿は熊に似ていた。しかしその図体の大きさは熊をゆうに超えている。高さだけ見ればハルの二倍以上はあるし、横幅はハクト五人分よりも大きいかもしれない。通常の生き物なら持ち得ない凶悪な長い爪を持つその腕できっと、ヘリオを吹き飛ばしたのだろう。そこまで考えて、ハルは弾かれたように駆け出そうとした。

「ヘリオ!」
「ハル駄目、危ない」
「離せカエデ、あいつがいくら変態で頑丈だからと言っても、あれじゃあ無事な訳が!」

腕を掴んで制止してくるカエデを振りほどこうとしたハルは、その直後右足の甲に強烈な痛みを感じて思わず動きを止めた。その痛みの原因を確かめるために視線を下にやれば、ふわふわの白い頭が視界に入ってくる。それと同時に、こちらをじっと見つめる金色と目が合った。どうやらハクトがハルの足を思いっきり踏みつけたらしい。

「落ち着くのじゃハム。今エムオに駆け寄ってもあれに倒され共倒れになるのがオチじゃ。エムオを助けに行くのなら、その前に立ちはだかる危険を取り除いてからにするのじゃな」
「き、危険を取り除く、って言っても」

いきなりの痛みに少しだけ頭が冴えたハルは、目の前を見つめた。暗黒色の悪意の塊がこちらを睨みつけていた。少しでも隙を見せれば、途端にこちらへ飛びかかってくるだろう。ハルは歯を食いしばった。

「あんな魔物、一体どうやって取り除けばいいんだよ」

ここまで大きな魔物に出会うのは、ハルは初めてだった。ヘリオは助けてやりたいが、ハクトの言う通り下手に近づけば同じようにやられるだけだ。そもそもここから逃げ出そうとしたって、ここまで体格が違えばいくら逃げ足が早くてもすぐに追いつかれてしまうだろう。絶望的な状況に、ハルは目の前が真っ暗になる感覚がした。
いや、それは気のせいでは無く、実際に起こっていた。ハルの目の前がいつの間にか真っ黒に染まっていたのだ。瞬きをしたハルは、それが真っ直ぐ伸びた艶やかな黒髪だという事に気付いた。いつの間にかハルの腕を離していたカエデだった。

「ハル、あの魔物を倒せばいいんだな」
「いっいやいや待てカエデ。まさかお前、あれと戦うなんて言うんじゃないだろうな」

ハルが尋ねかければ、何を当然の事を、と言いたげな顔でカエデが振り返ってきた。

「さっきから私は言ってたはず。魔物が出てきても、私がまた追い払うって」
「お前相手をよく見ろよ、前に出てきた犬っころみたいな魔物じゃないんだぞ、お前よりもかなりでかい奴じゃないか!」
「相手の大きさなんて関係ない」

必死で言い募るハルに、カエデは事も無げに首を横に振って見せる。その瞳は、そうする事が当たり前なのだと語っていた。

「どんな相手だろうと、ハルの目の前に立ちはだかるなら私の敵だから。私の役目はそんな敵から、ハルを守る事だから!」
「カエデ!」

ハルの制止も聞かずにカエデは魔物に向かって駆け出した。それを見た魔物も大きな腕を振り上げて迎え撃つ。振り下ろされた凶器の腕を、カエデは真正面から文字通り受け止めた。その細い腕で、下手をすれば己より太いその腕を受け止めたのだ。ただし、受け止めたのは片手だけだったので、すぐに自由なもう片方が襲いかかる。それをカエデは持っていた腕を勢いよく放り投げる事で魔物のバランスを崩し避けた、のだが、爪の先が僅かにカエデの髪をちぎりとり、宙へと散らした。間一髪のタイミングだった。
一度飛び退いたカエデの表情は険しい。力では(恐ろしい事に)そんなに負けてはいないはずだが、何よりリーチが違いすぎた。身体の大きさが二倍以上違うお陰で、カエデの人間の腕では魔物の腕の長さに太刀打ちできないのだ。

「やっぱり、素手だと少し辛い……」

悔しそうに呟いたカエデだったが、その表情は全然諦めてはいなかった。リーチが短い分相手の懐に飛び込まなければならず、攻撃を受ける機会も増えるだろうが、カエデにとってはそれだけだった。カエデにとって重要なのは、ハルを傷つけない事と、目の前の敵を倒す事、それだけだ。それさえ達成出来れば他の事なんて、カエデにとってはさほど重要な事ではないのだ。
カエデが身構えたのを見て、ハルは眉をしかめさせた。カエデはきっと無謀な戦い方をするのだろうと何となく分かってしまったためだ。ハルは焦ったように、隣に立つハクトの頭をもふもふと叩いた。

「おいハクトさんどうする?!あのままだとカエデは勝つかもしれないけど、とんでもない大怪我をしてしまうかもしれないぞ!」
「まあ素手であれに挑むのは確かに無謀だわな。何か武器でもあれば話は違ったのじゃろうがの」
「くそっやっぱりさっきの町で何かしら買ってやるべきだったか……」

ハルは己の金欠具合を嘆いた。しかし嘆いてばかりでは何も解決しない。焦りまくるハルを見て、ハクトがやれやれといった様子で本を広げた。

「最近の若い者は頼りがいがない、仕方ないのう。わしも少し手助けしてやろうか」
「え?あ、ああ、そういえばハクトさんは魔法使いだったな!」
「お主、今の今まで忘れておったのか、魔法の指導もしてやったと言うのに」
「いやあやっぱり見た目が子どもだから……いやすいません何でもないです」

じろりとハルを一睨みしたハクトは一歩前へと踏み出す。まるで本に書かれてある文章をなぞる様に指を動かしながら、横目でハルを見た。

「ハムは下がっておれ。魔法を覚えたての初心者にこの規模の魔物はちと荷が重い」
「あ……」

ハルが何か言葉を発する前に、ハクトの持っていた本が強烈な光を放つ。途端に、さっきハルが出してみせた炎が消えかけのマッチの火に思えるような強大な炎が空中を飛んだ。炎は確かにハクトの本から現れた。普段から何気なく読んでいた本からあんな魔法が飛び出すなんてと、ハルは知らず知らず顔色を青くしていた。
炎に一瞬のうちに身体を焼かれた魔物は悲鳴を上げる。その野太い大きな鳴き声はそれだけで凶器だった。耳をふさいでそれを耐えたカエデは、魔物に出来た隙を逃さぬようにすかさず蹴りを叩きこんだ。しかし、思ったようなダメージは通らず魔物は少しだけ身体を傾がせただけであった。すぐに腕の応酬が襲いかかり、カエデは再び飛び退かざるを得なくなる。ぱらりとページをめくったハクトは、魔物の様子を注意深く見守った。

「ふむ、思ったより皮膚が厚く魔法があまり効いていないようじゃな。打撃も同様じゃろう」
「打撃のカエデに魔法のハクトさんなのに……それって、俺達詰んでないか?!」
「鋭利なもので皮膚を傷つければ直接肉体にダメージを与えられるんじゃが。さーて、どうしたものか」

ハクトが思案している間も、カエデは魔物の攻撃を避けたり受け流したりしながら隙を探っている。人間ではないカエデにスタミナ切れというものが存在するのかハルには分からなかったが、もしあるのだとしたら次第にカエデが不利になっていくだろう。ただでさえ今も思ったほどのダメージを与えられていないというのに。
ハルは必死に考えた。まともな攻撃方法を持たない自分だが、せめて何か出来る事は無いだろうかと。男が守られているだけなどと情けない、手助け出来るような何か、無いだろうか。

「魔法、はハクトさんの方が遥かに強いから意味ないし、かといって武器になりそうなものなんて持ってないし!しがない絵描きの俺が持ってるのは武器とは遥か遠い画材道具だけか……いや?」

ハルの脳裏を今までの言葉走馬灯のようによぎる。さっきまで、初めての魔法が成功して、こんな巨大な魔物が潜んでいるなんて思いもしていなかった喜びの時間。そんな時にカエデは言っていた。

『それじゃあハルは魔法でいつでも冷たいアイスを取り出す事が出来たり、魔法で山のような甘いジャムを出したりする事が出来るようになるんだ……ハル、すごい』

あの時はそんな都合の良い魔法なんて出来る訳が無いと一蹴したが、果たしてそうだろうか?絵を描いた事で、その絵をそのまま魔法に出来てしまうのであれば、カエデの言っていた事はあながち間違いでは無いのではないだろうか。
即ち。ハルが冷たいアイスを描けば、実際に冷たいアイスが出てくるのではないだろうか。山のような甘いジャムを描けば、本物の山のような甘いジャムが現れるのではないだろうか。ハルが宝珠から貸し与えられた力というものが、こういう魔法の力だったとしたら。
ハルは今までで一番、己が宝珠を持っている事実に感謝した。

「おい宝珠さんよお、勝手に人に押し掛けてきやがったんだから、こんな時ぐらい役に立ちやがれよなっ!」

荷物をひっくり返し、ずっと共に旅をしてきた使い慣れた画材を取り出したハルはスケッチブックを手に持ち、思い切り睨みつけた。ハルの戦いは今、始まったばかりであった。

11/04/03



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