忙しなく口から吐き出される自分の乱れている息の音がいやに耳につく。きっと前を歩くカエデからそういった苦しそうな音が一切聞こえてこないせいだ。ハルは男として悔しい思いを胸に抱きながら、カエデの背中で揺れる黒い髪を見つめた。
いいやもしかしたら、この考え自体が無駄なものなのかもしれない。即ち、カエデを人間の女だという考えだ。カエデは姿こそ美しい人間だが、その正体は違う。だから女だから、人間だから、なんて考えは無駄で、本当は女ではない、人間ではないから、ハルがカエデに勝てない事は、当たり前なのではないだろうか。
そんな事、端からハルは分かっていたが、だからと言って開き直れるほど器用な人間ではない。正体が何であれ、今のカエデは人間の女の姿なのだから。いくら言い聞かせようとしても、ハルの脳みそはどうしてもカエデを世間知らずのただの女だと認識しようとしてしまうから。

「ハル?」

視線を感じたのだろう、カエデがふと振り返ってきた。カエデが首を振る毎に揺れるポニーテールを思わず目で追ってから、ハルは慌てて己の首を横に振る。今はこんな不毛な事を考えている場合ではない。

「悪い、何でもない。さすがに少し疲れたみたいだ」
「それなら私が背負」
「絶対に背負わせだけはしない!」

頑なに断るハルに、カエデは少しだけ考えるように黙った。そうして身体ごとハルに振り返ってきたと思ったら、右手を差し出してくる。思わずハルは目の前に現れた真っ白な掌を見つめた。

「何だ?」
「背負えないなら、引っ張る」
「……まさかつまり、この手を取れって事じゃないよな?」

尋ねるハルに、他にどんな意味があるのだと言わんばかりに首を傾げるカエデ。確かに背負われるよりはマシだが、あくまでマシなだけだ。手を繋いで引っ張り上げて貰うような段階ではまだない、とハルは心で叫んだ。現実でも叫んだ。

「だからまだ助けはいらないって!お前はどれだけ過保護なんだよ!」
「宿主を助けるのは守護騎士としての役目だから」
「そういうのは本当に命の危険が迫っている時だけでいいんだよ。少なくとも今はそういう危機じゃないから、それはいらない!」
「分かった」

手をひっこめたカエデが、ほんの少しだが残念そうに見えた。やはり守護騎士として働く事がカエデの喜びなのだろうか。ハルがまた考え込む前に、横からひょいっと人影が現れた。

「いるいる!俺様はいるー!カエデ様、その麗しいお手を是非俺様にもぐほぁっ!」
「させねえっての!」

油断していればすかさず湧いて出てくるヘリオを、ハルは容赦なく肘で脇腹を突いて撃退した。ハル以上にへばっていたはずなのに、こういう時のための体力は残っているらしい。ある意味感心するハルに、最後尾をマイペースについてくるハクトが広げた本から顔を上げて話しかけてきた。

「ハムよ、ここで立ち止まっていて良いのか?もうすぐ日が暮れてしまうぞ」
「え?ああっ!」

ハクトの言葉に頭上を見上げたハルが焦った声を上げる。もうすぐこの丘の頂上が近いのだろう、周りに生い茂っていた木々も段々と少なくなり、はっきりと空が拝めるほどになっていた。その空からは最早太陽は見えず、うっすらと青色から赤色へ変わりかけていた。ハルは今までの疲れも忘れてカエデを正面に向かせ、その背中を押した。

「カエデ、急げ!間に合わなくなる!」
「間に合わなくなる?何に?」
「ついたら分かるからとにかく早く!ここで間に合わなかったら、全てが水の泡だ」
「分かった、急いで行く」

頷いたカエデは駆け出した。ハルの手を握って。お前さっき俺が言った事忘れたのかと驚いている暇がハルにはなかった。ついでにその手を振りほどく余裕もなかった。ハルはそのままカエデに手を引っ張られるまま、斜面を駆け登った。視界が開けたのは、そうやって駆けて少し進んだ先だった。

ハルは最初、山火事に出会ったのかと思った。それほど強烈な赤い光が目に飛び込んできた。思わず目を瞑り、開いたハルの目の前にあったのは、見渡す限りの空であった。
ここはこの緑溢れる深い森の中でも一番高い場所にあるらしい。視界を遮るものは最早存在していなかった。丘の頂上に立つハルとカエデは、四方を真っ赤な空に包まれていた。まさしくここは空の中だった。二人は森を抜け出し、空の中に立っていた。
あまりの景色に呆然と立ち尽くす二人の目の前で今、丸く燃え上がる太陽が遥か遠くにそびえる山の向こう側へと沈みこもうとしている。太陽は没する寸前、この世界を燃やし尽くそうとしているかのようだった。そう錯覚してしまいそうになるほど、空も、森も、地面も、ハルも、カエデも、全てが夕焼け色に染まっていった。
どれぐらいそうやって立っていただろうか。第三者の声に、ハルはようやく我に返る事が出来た。二人に置いて行かれたヘリオとハクトが追いついてきたのだった。目の前の光景に、ヘリオは文句を言う事も忘れ、ハクトも言葉を失っていた。

「うひゃあ、これをまさしく絶景って言うんだろうねえ。こんなに美しい夕陽を俺様生まれて初めて見たかも」
「……うむ、これは確かに素晴らしい景色じゃ。わしの長い人生の中でも上位の光景じゃろう」
「俺も、初めてだ。この辺で一番綺麗な夕陽を拝める場所だって聞いてはいたけど……まさか、これほどのものとは」

ハルはゆっくりと深呼吸した。身体の中に、空を燃やす夕陽の欠片を取り込むように。ここに来るまでの苦労や疲れは全てこの夕陽に燃やされ灰になってしまった。しかし一つだけ、夕焼けに感化されてハルの中で燃え上がるものがあった。
そう、ここに来た目的である。

「っよし、描くぞ!」
「おお、忘れておらなんだか」
「当たり前だ、景色を見ただけじゃ金は増えないからな。それに何より、こんな光景目にして絵に描き止めないなんて、絵描きじゃねーだろ!」
「おおっヒメってばまるで職人みたい!」

茶化すヘリオに構っている時間さえ惜しい、ハルは急いで荷物の中から画材一式を取り出し始めた。何せこの絶景はいつまでも目の前に広がっているものではない。後少しすればあっという間に太陽はその姿を地平線の向こうへ隠してしまうだろう。その前に、出来る限りのものを描いておかなければならない。
コンパクトに畳める組み立て式のイーゼルを瞬時に展開し、その上に本気の絵を描く時用のキャンバスを置き、数本の絵の具を引っ張り出したハルは、躊躇いも無く筆を絵の具に浸し、夕焼けの絵を描き殴り始めた。それまで空を呆然と眺めていたカエデは、ハルの隣に移動しその手元を眺める。カエデが近くに移動してきた事にもハルは気づかず、ただひたすら手を動かした。

「なるほど、絵描きを名乗るだけあって良い集中力じゃな。これはしばらく戻って来ぬじゃろう」
「えー確かにこの光景は綺麗だけど俺様つまんない。それじゃあヒメが見ていないうちにカエデ様と一緒に遊んでおこうかなあ」
「余計な事したらここから突き落とすからなヘリオ」
「うわあさすがヒメだ容赦ない!しかもこっちの言葉聞こえてるし!」
「うむ、必要な情報だけは拾う。まことに良い集中力じゃ」

それっきり無言で絵に打ち込むハルを眺めてから、ハクトはまだ空が赤く辺りを照らしているうちに、辺りの見回りを行った。丘を頂上から少し下れば落ち着けそうな平たい地面を見つけ、どうやってハルに邪魔されないようにカエデにちょっかいかけようか悩んでいるヘリオを呼ぶ。

「エムオ、来い。日が完全に暮れる前に野宿の準備をするぞ」
「えっ野宿?俺様、なるべく清潔な場所で寝泊まりしたいんだけど。何せ貴公子だからね!」
「お主その調子でよう旅をして来られたものじゃな。目前にもう夜が迫ってきておる、今から町に帰るのは不可能じゃ、危険すぎる。おそらくハムもここで一晩明かすつもりで来たはずじゃ」
「ちぇーっ、これが美人からの命令だったら喜んで従うけど、相手がこのチビじゃあなあ」

ぶつくさ文句を言いながらもヘリオはのろのろ動き始めた。本から魔法を出現させる必要はなさそうだ。ハクトは次に、ハルの隣に立つカエデへちらと視線を送った。

「……カエデ、お主は」
「私はハルの傍にいる、何かあったらいけないから」

ハクトが何かを言い切る前にカエデは首を横に振った。素早い反応だった。ふむ、と顎に手を当てたハクトは金色の瞳を光らせ、まるで探る様な目つきでカエデを見る。ハルは気づいていない。

「それは守護騎士だからか?」
「そう。私はハルの守護騎士だから、ハルから離れる事は出来ない」
「果たして、本当にそれだけなのかのう」
「?」

ハクトの言葉の意図が掴めず首を傾げるカエデ。そんなカエデを呼ぶ事を早々に諦めたハクトはヘリオをこき使うために歩き去って行った。カエデは不思議な事を言っていたハクトの背中が見えなくなるまでじっと見つめていたが、すぐに視線はハルへと戻って行った。
ハルが必死に目の前の光景を絵に描き止めている間にも、辺りは刻一刻と変化していった。丸い姿が完全に見えていた眩しい太陽は、とうとう大地にキスをしてその身体を沈みこませ始めていた。それに伴い夕焼け色も段々と濃くなっていき、夜が近づいてくる。ハルは粗方描き込んだキャンバスを横に置いて、もう一枚取り出した。やはり絵は複数描いておかなければ、満足のいく収入は得られないのだ。

「くそ、やっぱり日が沈むのは早いな……!せめてもう少し沈むのを待ってくれたらもっと描けたってのに」
「ごめん、ハル。私でもあの太陽を止める事は出来ない」
「安心しろ、そんな人知を超えた事まで期待してないから」

愚痴りながらもハルの手は止まる事がなかった。慣れた調子で鞄から水筒を取り出し、本来なら飲み水用のそれも惜しげもなく使う。元々ハルの水筒は飲み水にも絵を描く時にも使えるように少し大き目だった。特にこういう貴重な絵を描く場面では躊躇ってなどいられない。
そうして急ぐハルの目の前、二枚目の絵が完成する前に、太陽はそのほとんどをすでに隠してしまっていた。あんなに明るかった空も太陽とは反対側からだんだんと暗くなっている。夜の空気が忍び寄ってきているのか、肌寒さまで感じ始めた。ハルは嘆いた。夜のカーテンが迫りくる今の状況も趣があって嫌いではないが、今描いている絵はもっと明るい時間のものだからだ。

「ああっ早いって!ちくしょう、もっと明るい赤を見せろよ……」

こうなったら記憶を頼りに描いていくしかないか。そう考えたハルの頭に、ある一つの赤が思い起こされた。明るい赤。美しい赤。全てを塗りつぶすほどのあの夕陽は、この世のものとも思えぬほどの素晴らしい赤だったが、ハルはそれより前に、あれと似たような感動を抱いた赤を見た事がある様な気がした。それも、最近だ。
ようやくその手を止めたハルがゆっくりと首を巡らせば、そこに思い浮かんだ赤があった。こちらをきょとんと見つめてくる、少し自分の目線より高い位置にある、二つの赤。確かに小さいが、十分の美しさだった。

「これだ」
「ハル?」
「カエデ、お前の目を見せてくれ。お前のその赤い目見てると、さっきの夕陽をよく思い出せそうだ」
「分かった」

一つ頷いたカエデは、そこでぴたりと動かなくなった。ハルに自分の目を良く見せるために努力してくれているのだ。その事に感謝しながら、ハルは再び筆を動かし始めた。
奇妙な光景だった。ハルは小さな小さな赤い目を真剣な表情で見つめながら、大きな大きな夕陽を描いている。不思議と良く手が動いた。その鮮明な緋の色を見つめていれば、自分が夕陽を描いているのか、この瞳を描いているのか、一瞬分からなくなりそうだった。それほどカエデの瞳は深く、明るく、美しかった。
ハルのために動きを止めたカエデは、しばらくしてからぷるぷると震え出していた。

「ハ、ハル」
「何だ?」
「ハルは今魔法を使っているのか?絵を描く事で、私の目に何か魔法を掛けているの?」
「はあ?何でだよ」
「ずっとこうやって目を開けていたら、だんだんとしぱしぱしてきて……」
「わーっ!瞬きはいい!瞬きはしていいから!」

カエデはどうやらハルが良く見る事が出来るようにと目を見開く事によって、瞬きさえも我慢していたらしい。ハルの許しをもらったカエデは、ようやくゆっくりと瞬きをする事が出来た。どこまでも馬鹿正直なカエデに、思わず手を止めてため息をついたハルは、気を取り直して作業を開始する。二枚目の絵は、カエデの瞳のお陰でもうすぐ完成しそうだ。
最後の仕上げに取りかかったハルの元へ、ヘリオの声が届いてきた。二人を呼びにきたらしい。

「おーいヒメーカエデ様ーこの俺様がわざわざこの手で手伝ってやった野宿の準備が出来たよー。ご褒美に良くやったわねこの下僕って罵ってよカエデ様ー、って」

ひょっこり顔を出したヘリオは、そこで動きを止めた。急に不自然に静かになったヘリオにハルは首を傾げる。ヘリオはまるで、不可解なものを見たような表情をしていた。片手をあげて制止していた身体は、ハルが眉を寄せるのと同時に我に返ったように動き出した。

「何、何?俺様、何か邪魔しちゃった?幻想的な光景の中で二人っきりになって夕陽みたいに燃え上がっちゃった?」
「は?何の事だよ」
「もーとぼけたって無駄だよヒメー!今のこの状況で人一倍繊細で敏感な俺様を誤魔化しきれる訳がないでしょ!」
「何を訳の分からない事を。今のこの状況って、俺はただ絵を……」

何故か一人で盛り上がるヘリオに呆れて視線を戻したハルは、目の前にカエデがこちらをじっと見つめた状態で立っている事に気がついた。当たり前だ、目を見せろと言ったのはハルだ。カエデはハルの言葉に従い、こうして立っているに過ぎない。そしてハルはというと、その顔を今までじっと一心不乱に覗きこんでいた訳で。
傍から見たらそれがどんな姿に見えるか、今更気付いたハルはまだ空に夕焼け色が残っている事に感謝した。もし今が普通の昼間であったら、一瞬のうちに顔色を赤く染めた情けない姿を見られていたであろう。

「ち、違う!俺はただカエデの目の色が夕陽の色に似ていたから代わりに見ていただけで!」
「ええーっヒメってそんな口説き文句使うようなロマンチストだったの?!意外!ヒメは絶対奥手だと思っていたのにその髪色のせいで!」
「口説いてねえー!あと髪の事は言うなー!」

日が完全に落ち星が瞬き始めた空の下、暴れるのも一苦労なこの狭く高い丘の上でどたばたと争い始めるハルとヘリオを、話題について行けなかったカエデがその場に突っ立ったまま眺める。その横にはいつの間にか、ミイラ取りがミイラになって帰ってこないので迎えに来たハクトが明かりを手に呆れた目を向けていた。
ちょうど良い、とカエデはハクトに尋ねた。

「ハクト、口説く、とは一体どういう事を言うの?」
「……いずれハムに聞くと良い」

何だか面倒くさくなったハクトは、説明を諦めて本を広げた。ひとまずハクトの言葉に頷いたカエデは、いつハルに聞こうかな、などと考える。
結局ハルとヘリオの戦いは、ハルが本気でヘリオを高所から蹴り落とす寸前まで続いたのだった。

11/06/05



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