空が完全に夜の闇に包まれれば、目立つ明りは目の前の焚き木の炎しか無くなってしまった。しかし、辺りが思ったよりも見渡せる事にハルは気づいた。頭上を見上げて、その理由を理解し納得する。まるで今にも降ってきそうなぐらいの満天の星空がそこに広がっていたのだった。

「さすがにいつもより空に近い場所だからか、星の光も強く感じられるな」
「おっいいねえ、さながらここは星に囲まれた空の上のステージ?この輝く舞台なら、俺様の美しさもより際立つと思わない?」
「一切思わねえからさっさと退場しろ、邪魔だ」
「ヒメひどいっ!そっけない!でもそこが良い!」

喚くヘリオをごく自然に聞き流し、ハルは目の前の事に再び集中した。炎の明かりに照らされたハルの手元には今、スケッチブックが広げられている。さっきまでのような激しい筆使いとは違うが、慎重に丁寧に何かを描いていた。さっき食べた夕飯のスープの美味さに感激していたカエデは、ハルの様子に気づいて手元を覗きこんでくる。

「ハル、まだ何か描いてる」
「ああ。さっきの光景が脳に焼き付いている間に、後もう少し描いておこうと思ってな。数は多いのに越した事は無い」
「ハルはすごいな、見ていないのにそんなに綺麗な夕陽を簡単に描いてみせる。やっぱりハルの絵は魔法だ」
「だっだからそうやって褒めすぎるのはやめろって、逆に戸惑うだろ」

じっと手元を覗きこんでくるカエデを少しだけ押し返してから、ハルは気を取り直してスケッチブックに向き直る。あれからもう結構描いている、これぐらいあれば足しになるだろう。最後の絵の仕上げのために、ハルは筆を動かした。
普段より高い場所での野宿であるためか、辺りはとても静かだった。これが眼下の森の中などであれば、もっと森に息づく生き物たちの音が常に耳に届いていたはずだ。空の上というのは、こんなにも静かな所だったのか。自分達が発する音以外で聞こえてくるものと言えば、少し冷たい風の音ぐらいだった。
そんな静寂の中、たき火にくべられていた小さなやかんの蓋がカタカタと音を立て始めた。それはハルのものではなかった。こんな暗がりの中でも飽きずに本を読んでいたハクトが、腕を伸ばしてやかんを取る。彼はどうもお茶に並々ならぬこだわりがあるようで、お茶を入れる道具だけは一式自分で用意していたのだった。夕飯はハルからのおこぼれを預かったくせに。

「うむ、やはり食後には緑茶に限るな」
「チビのくせに食後のお茶とか生意気じゃない?俺様にも分けてよ」

笑顔で手を差し伸べてくるヘリオに、ハクトは容赦なくお湯をぶっかけた。とっさにヘリオはそのほとんどを避ける事が出来た。もしかしたらそういう対応をされる事を予期していたのかもしれない。

「熱っ熱いよ!この皮膚の奥底からじんじんくるこの熱い痛みが癖になる……じゃなくて普通に危ないでしょ!何するんだこのチビ!」
「お主にこのお茶の良さが分かるとは思わなかったのでな、代わりに苦しみもがける湯をかけてやろうと思ったのじゃ、大好物じゃろう」
「あのなあ、俺様、お子様に攻められる趣味は無い訳。ただ単に痛みを貰うだけで快感得るような節操無しじゃないのよ、分かる?この崇高なこだわり」
「分かりたくもないわ」
「そもそもお前さっき癖になるとか言ってただろ」

横からハルが指摘してやればヘリオはてへっと舌を出してみせた。むかつくので無視する。そうこうしているうちにハルの絵は完成した。

「よし。今日の所はこんなもんかな」
「完成したのか」
「まあ一通りな。ああ、さすがにずっと描きっぱなしだったから疲れたな」

スケッチブックと筆を置いて、ハルは思いっきり伸びをした。張り切って絵を描くために凝り固まっていた肩と気持ちが夜の空に溶けていく気がする。それと同時に疲れもやってきた。良く考えれば、へとへとの状態でこの丘まで登った後休む事なく今まで絵を描いていたのだから、疲れているのは当たり前だ。ハルは少しだけ反省した。夢中になると色んな事が見えなくなるのが、己の悪い所だと自覚していた。

「……良く考えたら、明日は今日来た道をそのまま戻らなきゃいけないんだよな。下りとはいえまた疲れるだろうな……」
「ああっ俺様もすっかり忘れてた!そうだった!愛と美とドSの女神様にまたしごかれなきゃならないのかあ」
「お前のその脳内の女神様を一回見てみた……いや、やっぱやめとく。とにかく今日の所は早く寝るか」

スケッチブックを拾って熱心に見つめるカエデからそっとそれを奪い返して、ハルは寝支度を整え始める。明日の事を憂鬱だー何だーとブツブツ言いながらヘリオもそれに従った。ハクトはのんびりとお茶を飲みながらページをめくっている、まだ起きておくつもりなのだろう。
これだけ空にむき出しの場所だから、朝日が眩しいかもしれないなと思いながらハルは寝る前に空を見上げた。空の端まで広がる星の海と、間を縫うように浮かんでいる細い月がそこにあった。この世の終わりかと見紛う程の真っ赤な色をしたあの夕陽を目当てにここまで来たが、この夜空だって滅多に見れないほど美しいものである。一瞬、この夜空も描いてみようかと思ったハルだったが、すぐに止めた。以前同じように綺麗な星空を描いてやると意気込んだ事があったのだが、どうしても理想のものが描けずに諦めたのだった。どうして夜を描くのは、こんなに難しいのだろう。ハルは悔しそうにため息をついた。

「あーあ、目に見えてるもの、頭に浮かんだものをそのまま紙に描ける能力があればなあ」

すると、ハルの愚痴を耳ざとく聞いていたカエデが首を傾げる。

「どうして?」
「どうしてってお前そりゃ、絵描きだったら一度は思う事だろこれは」
「ハルはもうすでにその能力を持っていると思う。今日描いていた絵も十分上手なのに」
「甘いなカエデ。俺より上手い奴なんて、この世に沢山いるんだぞ。俺なんてまだまだだ」
「そんな……ハルより上手い人が沢山いるなんて……この世は魔法使いだらけなんだ……」

何か衝撃を受けているらしいカエデの隣にごろりと寝転がって、ハルは空へ向かって腕を伸ばした。そこに星は掴めないが、ぎゅっと握り込む。絵なんて死ぬほど描いていれば上手くなるとはハルの祖父の言葉であったが、本当にその通りなのだろうか。物心付いた頃からずっと今まで描きまくってきたハルに今の所実感は無かったが、例えその言葉が無くても、同じように絵を描き続けていただろうと思った。それぐらいハルにとって、絵を描くという事は生きる上での当たり前の事であった。
いつかこんな夜空も上手く描いてみたいなあとぼんやり宙を眺めていたハルの目にその時、金色の光がチカッと届く。驚いて瞬きをしたハルは最初、無数に浮かぶこの星のどれか一つが光ったのではないかと思った。その真偽を確かめる暇も無く、今度は目の前の星々の一部が黒く塗りつぶされる。ハルは一瞬後に理解した。それは影なのだと。夜の空に浮かぶ何かが影となって、ハルの視界から星達を隠したのだと。

「な、何だ?何かが空を飛んで……」
「静かに」
「でっ?!」

身を起こしかけたハルは、頭に衝撃を受けてすぐに再び地面へと沈みこんだ。ハルの頭に当たったのは分厚い本の表紙で、当てたのは間違いなくハクトだ。幸い当てられたのが本の角などでは無かったため、痛みはそんなに無い。そっと頭を持ち上げてみれば、ハクトが身を低くしながら焚き木の炎を消し、真っ暗な空を睨みつけているのが目に入った。横にはハルと同じようにとりあえず伏せるカエデがいる。少し向こうには頭を押さえて悶絶しながら地面を転がるヘリオの姿があった。あれは絶対、本の角でぶたれたに違いない。
しばらく緊張した己の呼吸だけが聞こえる時間が訪れる。どれぐらいそのままでいただろうか、ハクトがむくりと身を起こしたのをきっかけに、ようやく止まっていた空気が元に戻った。一番最初に声を発したのは、おそらく今まで我慢していたのであろうヘリオだった。

「ってえええ脳に響くこの痛み重い、重すぎるっ!さすがにちょっとしか楽しめない!その殺人的分厚さを誇る本の角でぶつのはちょっとひどいと思わないのかチビ!下手したら俺様死んでるよ?!」
「下手しなくて残念じゃな。……ふむ、無事気づかれずに済んだようじゃ」

ヘリオを振り返りもせず、ハクトはひたすら空を見つめていた。おそるおそる起き上がったハルは、ハクトの視線の先を追いながら尋ねかける。ちなみにいくら追いかけても、その先に星空以外を見出す事は最早出来なかった。

「ハクトさん、今のは?」
「ハム、お主もどうやら見たようじゃの。先ほどこの頭上を通過していた物体を」
「あ、ああ。と言っても影をちらっとしか見ていないんだけどな」
「大きかった」

横から聞こえた声にえっと振り返ると、カエデがいた。その緋色の瞳をぱちぱちと瞬きさせながら、もう一度言う。

「空を飛んでいたものは、私よりも大きいものだった」
「カエデ、見えたのか?」
「少し」
「そうか、すごいな。やっぱり赤い目って世界の見え方も違うものなのか?」
「確かに大きいものじゃった。何せ竜じゃったからの」
「ハクトさんはそんなにはっきり見えたのか。金色の目なだけあってやっぱり暗闇でも良く見えるものなのかな……え?」

ハクトの言葉をカエデの瞳を覗きこみながら聞いていたハルは、少し反応が遅れてしまった。結果、先に驚きの声を上げたのはヘリオだった。

「おいちょっとチビ、それ本当なのか?さっき空を飛んでいたのが、竜だって?」
「りゅ、竜?!まさかそんな伝説の生き物がさっきすぐそこを飛んでたって?!」
「落ち着くのじゃ。竜は竜でも本物の竜より大分小さい影じゃった。おそらく竜人じゃろう」
「りゅーじん?」

カエデが首を傾げる。ヘリオも訳が分からない顔をしている。ハルはその言葉に、聞き覚えがあった。
竜人。確か、人間の血と竜の血を引く、本物の竜ほどではないが珍しい種族だったはずだ。

「俺は聞いた事があるな。実際に見た事がある訳じゃないが、確か竜の姿に変身できる人間、だったか」
「まあその通りじゃ。普段は人間の姿じゃが、竜の姿になる事も出来る。ただ本物の竜ほどの力は持ってはいないがな。さっきの影のように竜人が変化した竜の姿は普通の人間よりも少し大きいだけじゃ、基本的にわしの家よりも大きな竜とは比べ物にならないサイズじゃな」
「へえ、そんな反則みたいな能力持った種族いたんだ。そもそも竜でさえおとぎ話の中の生き物だと思ってたのに、俺様初耳」

ヘリオが感心するように空を見上げた。ハクトやカエデが見たという竜の影を見たかったに違いないが、もちろん今更顔を上げたって見る事は出来ない。ヘリオは残念そうに口を尖らせた。

「それならそうと言ってくれれば俺様もその影をガン見したのに、もったいない事したなあ。何で教えてくれなかったのさ」

本を開き焚き木に再度炎をつけながら、ハクトはじろりとヘリオを見つめた。その視線は傍から見ていたハルでもよく分かるほど相手の無知を馬鹿にしたような目だったので、当然ヘリオはムッとして拳を振り上げた。

「何だよその目!俺様竜人の存在すら知らなかったんだから見たいって思うのも仕方ないじゃん!どうせ冷めた目で見るならもっと蔑んだ目で見てよ!」
「やれやれ、ならば今ここでよく覚えておく事じゃな。竜人に会った時は、その色に注意しなければならないと」
「色?それは俺も初めて聞くな……」

ハルが顎に手をやって考え込むと、ハクトはため息を吐く。まったく今時の若者はという声がその子どもの口から聞こえてくるかのような仕草だった。

「竜人は群れによって色が違う。竜姿の場合は身体の色、人間姿の場合は体毛、髪じゃな。この群れというのが重要でな、群れによって人間に友好的であったり無関心であったり、差別的であったりと気質が全く違うのじゃ」
「ああ、つまりその竜人の色を見ればこっちに友好的なのかそうじゃないのかが分かるって事か。……で、もし相手がその差別的だったら、どうなるんだ?」

尋ねながらハルは少しだけ嫌な予感がしていた。わざわざこうしてハクトが教え聞かせてくれる事、そしてさっきの過剰なまでに身を隠した事、それを考えればおのずと答えは浮かび上がってくる。思った通りハクトは、こちらを脅すように少々物騒な表情で言った。

「そうさな、一方的に喧嘩を売られたりどこかに連れ去られたり、下手をすればこの場で頭から食われてしまうやもしれんのう」
「ま、マジで?」
「マジじゃ」

色々想像したハルは顔色を青ざめさせる。さっきからハクトは本物の竜に比べたら小さいと言ってはいるが、それにしたって普通の人間より大きい事に違いはない。そんなのに襲われたら、それこそ魔法の絵を描く暇もないままやられてしまうだろう。さすがのヘリオも神妙な顔でハクトの話を聞いていた。

「何だ。さすがに俺様も八つ裂きにされたりしたら快楽得るどころじゃないし、さっきの影はやり過ごして正解って事?」
「その通り。この闇の中でははっきりと身体の色も見えなかったのでな、身を隠すに越した事は無いと判断したのじゃ」
「な、なるほど……今更だけど、ありがとうハクトさん」

ハクトの注意が無ければ今頃空に浮かぶ不審な影について騒ぎたて、向こうに気づかれて頭からむしゃむしゃ食べられていたかもしれないと思うと、感謝せずにはいられなかった。ハクトはそれを聞いてうむっと満足そうに頷く。とにかく危機は去った。後は明日に備えて早く休むだけだ。
改めて寝転がろうとしたハルは、カエデが考え込むように空を見つめている事に気がついた。カエデにしては珍しい行動だった。

「カエデ、どうした」
「さっき、空を飛んでいた影の色、僅かに見えた気がして」
「本当か?ハクトさんでさえ見えなかったのに、お前すごいな」
「気のせいかもしれないけど、緑に見えた」
「緑じゃと?」

最初の位置に戻り本を片手に冷めてしまったお茶を飲もうとしていたハクトが、カエデの言葉に激しく反応した。影を見た時はあんなに冷静そのものだったのに、今の声には驚いた気持ちがそのまま現れていた。ハクトのその驚きように、ハルもまた驚いていた。

「な、何だ?緑の竜人ってとんでもなく危険な奴だったりするのか?」
「いや……いや、そのはずはない。緑の竜人はもう、いないはずじゃ」
「もう、いない?」
「それなら見間違いかもしれない。本当に一瞬見えた気がしただけだから」

カエデが思い出すのを諦めたように首を横に振る。それほど確かでない記憶なのだろう。とても自信がなさそうなカエデに、ハクトはあからさまにホッとしたようだった。

「そうか。それならいいのじゃが」
「何?チビってばそんなに竜人にビビってたの?可愛いでちゅねー怖くて眠れないんじゃないでちゅかー?俺様のこの貴重な今世紀最大の美声を使って子守唄でも歌ってあげようか?」
「結構。お主こそどうやら眠れないようじゃな。どれ、わしが魔法を使って眠らせてやろうか、永遠の眠りの旅にな」
「おやすみなさーい!」

ヘリオが静かになったことでハクトも口を閉ざした。後はさっきまでの静寂だけが残る。先ほどのハクトの反応が気になったハルだったが、結局尋ねる事が無いまま、寝転がった。少ししてから真似をするようにごろりとカエデが横になるのを確認した後、睡魔が急激に襲いかかってくる。元々疲れていたのだ、ハルはまるで急な坂道を転げ落ちるように、眠りの世界へ入り込んでいった。
うとうとと閉じる寸前の瞼が写したのは、開いた本を読む暇もないまま、何か考え事に没頭している真剣な金色の瞳であった。

「……そうじゃ、緑の竜人など、ここにいるはずはない。……たった一人を除いて……」

11/06/24



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