先刻の約束通り、カエデにアイスを買い与えてやったハルは、なかなかの上機嫌だった。もちろんさっきまで売っていた絵が、予想以上に売れてくれたからである。残ったのはカードほどの大きさのものだけで、後は全部売れてくれた。こんなに好調だったのは初めてかもしれないほどの勢いだったのだ。題材が良かったのか、売った場所が良かったのか、はたまたハルの腕が上がっているのか。色んな可能性はあるが、ハルは一つだけ確信していた。きっと今まで通り一人で売っていれば、こんなに売れなかっただろうと。

「こっこれは……苦味もあるが、それ以上の甘さが次々と広がってくる……!これは、このアイスは、前のアイスとは違う!」
「今頃気付いたのかカエデ、色からして違うだろ」

チョコレート味のアイスを食べるカエデの表情は驚愕に彩られていた。まさに、初めてアイスを食べた時の様子とほとんど同じだ。こいつの反応はいつでも新鮮に満ちているな、とハルは隣で感動に打ち震えているカエデを眺めながら感心する。こうやって喜んでくれるなら、客寄せになってくれた礼として奢った甲斐があったというものだ。
アイスに夢中になって自分の仕事を忘れているカエデが、すれ違う人々に当たらないようにさり気なく軌道修正してやりながら、ハルは日が傾きかけた町の中を歩いていた。今日はここに一泊するつもりなので宿探しと、後はハクトを探していた。ヘリオは戻ってきてもこなくてもどっちでもいいが、きっと勝手に一人で戻ってくると踏んでいるので気にしてはいない。しかしハクトは中身がどれだけ爺臭くても見た目は幼い可愛らしい子どもなのだ、どうしても心配になってしまう。

「ハクトさんが行きそうな所ねえ……」

ハルがまず頭に思い浮かべたのは、やはり本だった。どこに持ち歩いているのか不明だが、分厚い本をどこからともなく取り出してはいつも読みふけっているハクト。となれば、やはり本屋だろうか。対して期待もせずにちょうど通りに面した本屋を発見したハルは、中をちらと覗いてみた。そして、見つける。

「うお、マジでいたし」
「ハクトだ」

アイスを食べ終わりカエデもようやく意識が戻ってきたようだ。二人で本屋を覗き込めば、本を立ち読みするハクトをすぐに発見する事が出来た。あのふわふわの白い頭は、ハルほどではないが良く目立つ。

「おーい、ハクトさん」

随分と熱心に読みふけっているハクトに、ハルは声を掛けながら近づいた。ハクトはハルの声に驚いたように一瞬で本を閉じ、金色の目でぱっと振り返ってきた。

「……ハムか」
「何かもう慣れたけど、面と向かって改めてハムとか呼ばれるとさすがにムカつくな……。こっちはもう店を撤収してきたんだ、ハクトさんはあれからずっとここに?」
「まあの」
「『竜人の歴史、その生態』」

いきなりカエデが声を上げた。驚いてハルが振り返ると、カエデはある一点を指差す。それは、先ほどまでハクトが読んでいた本の表紙だった。ハルからは見えなかったが、目が良いらしいカエデには読めたらしい。

「お前、字が読めたのか」
「ゴシュジンサマが教えてくれた」
「またそいつか……そのゴシュジンサマっつーのに一体どんな事を教えて貰ったのか今度じっくりと問い正してえな……。にしても、竜人の本なのか、それ」

ハルが指せば、ハクトは少しだけ視線を逸らしながら、こくりと頷いた。何故かは分からないが、どこか気まずそうである。

「昨日見た竜人っぽい影の事を気にしてたのか」
「……まあそういう事じゃ。竜人の事は昔一通り調べ倒したのじゃが、最近の様子は疎かにしてあったのでな。情報は出来うる限り最新のものの方が良いからの」
「なるほどな。それで、その本買うのか?」
「いや、大した事は書いていなかった。また今度他を当たるとしよう」

持っていた本を棚にしまったハクトが歩き出したので、三人で本屋を出る。自分の本をさっそく広げながら、ハクトはハルに尋ねてきた。

「それで、絵の売り上げはどうだったのじゃ?まあ、その顔を見れば悲惨な結果にはならなかったようじゃがの」
「分かるか?それが結構売れたんだよ、かなり良いペースで。途中変な客が若干寄ってきたりしたけど、終わりよければすべて良しってやつだ。客寄せになったカエデにはアイスを奢ってやったから、ハクトさんにも何か奢るか?」
「えっ?!それじゃあ俺様にももちろん奢ってくれるんだよねヒメ!やった!」

途中で割り込んできた声に、ハルは反射的に振り向きざま拳を突き出していた。ハルの手はそのまま、背後にいた人物の顔に綺麗にぶち当たり、相手を悶絶させる事に成功した。これでハルの心は幾分かすっきりする。あの絵を売る時、さっさと逃げ出したヘリオの事を、忘れていた訳ではないのだ。

「かっ間髪入れずにこんな一撃を喰らわしてくるなんて、さすがヒメ……俺様が見込んだドSなだけある……」
「勝手に変な見込み立てんな!それより一人で逃げたくせに、どの面下げてのこのこ戻ってきやがったんだヘリオ」
「誤解だよヒメー!ご飯食べたらすぐに戻ってくる予定だったんだけど、あの女の子たちとついつい話し込んじゃってさ。俺様の巧みな話術にめろめろになっちゃったみたいで、なかなか帰してくれなかったというかー。いやあ、本当俺様ってば罪深い男だわ、反省反省」
「ああそう……」

いちいちつっこんでいたら日が暮れる。そう判断したハルは顔を背けるが、ヘリオはまだまだしつこく食い下がってきた。どうやらさっきの奢りという言葉を聞き逃していなかったようだ。

「で!奢ってくれる件なんだけど、俺様贅沢は言わないから、そこにあった高級料理店一食分ぐらいでいいよ!」
「十分贅沢だろうがアホ!そもそもお前はまともな客引きしてないし、普段から俺に飯代と宿代たかってるじゃねーか!」
「だって俺様今お金ないんだもーん。それに、一文無しはカエデ様も同じじゃん?」

往生際の悪いヘリオが唇をとがらせながらカエデを指差す。その唇を引っこ抜いてやりたい衝動に駆られながら、ハルはヘリオの手を叩き落とした。

「カエデは良いんだよ、実際に客引きになってたし、ヘリオとは違うし」
「えー、カエデ様と俺様のどこがどう違うの?無理矢理ヒメにくっついてる立場は同じなのに」
「無理矢理の自覚はあるんだなお前……。どこがどう違うって、それは」

言いかけて、口を紡ぐハル。カエデとヘリオ、ハルの中でその立場ははっきりと線引きはされているが、実際に言葉に出す事がとっさに出来なかった。一体自分は、どうやってカエデとヘリオの立場が違うと認識しているのだろう。ヘリオの言う通り、一人旅に無理矢理一緒についてきた所は二人とも同じだ。そもそもこの旅の目的こそが、カエデの本体である緋の宝珠を手放すためのものなのに。
悩むハルに助け船が出された。興味なさげに本を読んでいたと思われたハクトだった。何気に会話を聞いていたらしい。

「カエデとエムオの違い、明確であろう」
「ハクトさん!」
「エムオはただの邪魔者で、カエデはハムの所有物じゃ。扱いの差が出てもそう可笑しくはあるまい」
「そう!そうだぞヘリオ、お前はただ邪魔なだけで、カエデは俺の所有物なんだから……っておいー!」

思わずハルはそのふわふわの白い頭をわし掴んでいた。ハクトがつっこまれるのは心外だとばかりにじろりと睨んでくる。

「緋の宝珠は今お主のものじゃろうが。間違っていないはずじゃが?」
「そうだけど!その言い方だと色んな誤解を招くだろ!」
「私は、ハルの所有物なんだな」
「ほら!カエデが変な言葉覚えちゃっただろ!どうすんだよ、初対面の人に「私はハルの所有物であるカエデです」なんて自己紹介し始めたら!俺ただの変態だろ!」
「ヒメってば必死だねえ」
「当たり前だ、お前と一緒になんてされてたまるか!」

肩で息をするハルは、とりあえず後でカエデに所有物の件はこれから一切口にしないように釘を差しておく事を決めた。世間知らずなカエデがこれから色んな言葉を覚えていく事は決して悪いことではないが、こういう変な言葉ばかり覚えられてはたまらない。周りにいるのは変な人ばかりだから、せめてハルだけでも正しい言葉を教えていかなくては。
新たな決意を胸に宿らせるハルの横で、ヘリオが興味深げにちらちらと手元を覗きこんできていた。何だろうかと胡散臭げに振り返れば、ヘリオは笑顔で尋ねてくる。

「それでヒメ、あの絵って全部売れたの?さすがの俺様も感動したあの綺麗な夕焼けを一つぐらい手元に残しておきたかったんだけど」
「あ?絵が欲しかったのか、それならこれやるよ」
「えっ本当?ヒメってば太っ腹!」

ハルが売れ残りの小さな絵をやると、ヘリオは素直に喜んだ。普段から胡散臭い事ばかり言っているが、こういう美術品を愛でる心は普通に持ち合わせているようだ。小さいながらも夕陽が描きこまれたその絵を、惚れ惚れと言った顔で眺めている。

「いやあ、本当に綺麗だ。ヒメも絵を発表する場を変えれば正当に評価されそうな実力を持ってると思うんだけどねえ。……あれ、この赤いの何?」
「は?」

ヘリオが指差す部分を、その場の全員で覗き込む。絵の右下、端っこの部分に、ヘリオが指差すものがあった。小さく描かれた、赤い何かであった。カエデも首を傾げた。

「夕陽じゃない」
「これはサインじゃな」
「サイン?」
「ハクトさんの言う通り、これはサインだよ、俺のな」

注目されていた部分を改めてハルが指し示す。サインだと理解した頭で見てみれば、そこにはハルと言う文字と、小さな模様を見る事が出来るだろう。ヘリオは納得したようだが、カエデは首を傾げたままだ。

「サインって」
「この絵は俺が描いたものだっていう証。いくら素人でも、やっぱり残しておきたいもんだろ、こういうのは。いつもこれを赤で描いてるのは、絵を教えてくれたじいさんの受け売りなんだけどな」
「ねえねえヒメ、ヒメの名前は分かったけど、横の模様って何?生き物のように見える気もするけど」
「ああ、それもじいさんの受け売りなんだ。あの人も同じマークを使ってたんだ、確かトカゲか何かだって言ってたんだが……」

ふと、ハルはそこで妙な既視感に襲われた。このサインはいつも自分が使っているものなのだから、見た事があるのは至極当然の事だ。しかし何故だろうか、この独特な模様を、サイン以外の場所で見た事があるような気がする。さらに言えば、この既視感を、どこか別の場所で感じた事があるような気さえするのだ。しかも、ここ最近で。あれは一体、どこで見たものだっただろうか。この既視感を、どこで体験したのだろうか。
至高の海にダイブしそうになったハルだったが、それをヘリオの声が引き止めた。手に持っていた絵を掲げて、くるくると回り始めたのだ。

「それじゃ、ヒメのサインと愛が入ったこの絵、俺様がありがたく受け取るよ!」
「き、気色の悪い動きをしながら気色の悪い事を言うな!」
「よーしこれで美しい女性を落とす時に利用出来そうなものが増えたぞー」
「そして俺の絵を心底下らない事に使うな!返せ!」
「ごめんごめん嘘嘘!嘘だからちょうだい!」

こうして下らないじゃれ合いを繰り返していれば、時間なんてあっという間に過ぎ去っていく。頭上はいつの間にか、昨日ほどではないが綺麗な黄昏の色に染まり出していた。ヘリオとハルのやりとりに早々に飽きて本を読んでいたハクトが、ようやく二人に制止の声を掛ける。きっとこのまま暗くなれば本が読めなくなるからに違いない。

「こんな所で時間を潰している暇があるなら、その続きは宿でも取ってからにして欲しいのじゃが?」
「あっと、そうだった。こんな無益な事している場合じゃない、早くしないとまともな部屋を取れなくなるよな」
「えーっ俺様とのスキンシップはもう終わりー?罵倒は?愛の鞭は?」
「ねえよ!」

ヘリオを捨て置いて、ハルは歩き出そうとした。しかしその前に足を止める事となる。サインの説明を聞いてから、どことなくボーっとしているカエデに気付いたからだ。

「カエデ、どうした?」
「ハル……」
「何か気になる事でもあるのか」

ハルに尋ねられ、カエデは戸惑うようにぱちぱちと瞬きをした。自分でもあまり訳の分からない事に考え込んでいる様子だった。

「さっきのハルのサイン」
「あれか、まさかハルってなかなか読めない事に考え込んでる訳じゃないよな?サインっていうのはわざとああいう風に分かりにくく書くもんなんだよ、何でか」
「違う、ハルの名前じゃなくて、その横のやつ」

カエデはヘリオも聞いてきたあの模様が気になっているらしい。あのマークはそんなに変だろうかと少しハルは気になり始めたが、そうではなかった。

「あれと同じ形のものを……前に見た事があるような気がする」
「え?カエデも見た事があるのか?……それは、俺と会ってからの事か?」
「分からない」

ハルはさっき覚えた既視感を思い出す。もしかしたから、カエデとハルは同じ物を見ているのかもしれない。しかしカエデがそれをどこでいつ見たのか思い出せないようだったので、確かめる術は無かった。まあ、忘れていると言う事は、そんなに重要な思い出ではないと言う事だ。ハルは深く考えない事にした。こうしてただ考え込む事こそが、時間の無駄なのだ。

「思い出せない事を気にしたってしょうがないだろ、ほら行くぞ」
「……うん」

ハルに呼ばれて歩き始めるカエデは、しかしやはりどこかボーっと、何かを思い出そうとする事をしばらくやめられなかった。

「あれは……あれはゴシュジンサマといた時と、そして最近、見た事がある気がするのに……」

11/10/10



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