ハルは絶望するしかなかった。現在地面に突っ伏した状態で危険な鎌を持った自分よりも小さい女の子に追い詰められていて、そしてその女の子が変態だったという事実に。問題の女の子、ソディはどこか恍惚とした表情でハルを見下ろし、一人でブツブツと呟いている所である。

「最近これだと思う下僕がいなくて退屈している所でしたの、宝珠に願いが叶えられるようになったら、全人類を私好みの獲物にしてもらおうかと考えるほど。ああ、一体どうやって痛めつけて差し上げましょうか、迷いに迷ってしまいますわ!どうでしょうハル様、どのような拷問がお好みですの?今でしたら希望を聞いてもよろしいのですが」
「今まで生きてきて、好みの拷問なんて考えた事ただの一度もねえよ!」

傍若無人な事を言うソディに思わずつっこむハル。しかし途端に右手を踏みつける足に力が込められ、さらに刃が突きつけられた。本格的に、ハルの背筋が冷たくなってきた。そろりと上を見上げると、怪しい笑みでこちらを見つめるソディと目が合う。

「それではわたくしの好きにさせて頂きますわ。ハル様、どうか遠慮なく、心から絶望したお声で情けなく悲鳴を上げて下さいませね」
「まっ待て!止めろっ!」

鎌が振り上げられる。その動きは華奢な少女のものとは思えないほどの機敏な動きであった。とっさにハルは反応する事も出来ない。ただ月の光に照らされた銀色の刃が、己の頭上で輝くのを呆然と見つめる。こういう絶体絶命の場面で、時間が止まったように感じるのは本当だったのだと、頭の片隅で思う。静止した一瞬の世界、ハルは覚悟を決める事も出来ずに、ただ次の瞬間が来るのを待っていた。
しかし、ハルが絶望の中予想していた一瞬後の世界は、訪れなかった。
振り下ろされる刃よりさらに早く頭上を通り過ぎた、緑色の風によって。

キィン!
「くっ!良い所に邪魔を!」

気付けばハルの右手は自由になっていた。ソディが緑の風を間一髪で避けるために飛び退いたからだ。そう、緑の風はソディを目がけて飛び込んできたのだ。ソディの手の中にあった鎌は弾き飛ばされ、少し遠くの地面に突き刺さる。しかし次の瞬間には鎌は消え、ソディの手の中に移っていた。

「ようやく見つけたぞ、ソディ。こんな真夜中に何をしているかと思えば……」

響いた声はハルのものでもソディのものでもなかったが、その声に聴き覚えがあった。あまり耳慣れないが、しかし昼間に聞いた良く通る声。今までのショックで未だに立ちあがれないまま地面からハルが顔を上げれば、目の前に立つ人物の背中が見える。闇夜の中では黒く見えるその髪が、実は濃い森の色をしている事を、昼間見たハルは知っていた。

「まさか一般人に襲いかかっているとは思いもしなかったぞ。……君、大丈夫か」
「ま、マツバ、さん?」

振り返った瞳は、闇の中でも輝く金色。間違いなく、昼間ソディを追っていたあのマツバであった。マツバはハルと目が合うと、その鋭い瞳を少しだけ柔らかくゆがめた。

「その髪は……昼間の絵描きか、どうやら厄介な者に目をつけられたようだな」
「ちょっとマツバ、わたくしとハル様の輝かしい時間を邪魔しないで下さる?せっかくお楽しみの時間でしたのに……ねえ、ハル様?」

ソディが小首を傾げてくるが、ハルは全力で首を横に振ってみせる。視線をソディに戻したマツバは、ハルを背中に庇ったまま、厳しい声を投げかけた。

「ソディ、お前と私はただの仕事仲間だ、趣味の事についてとやかく言うつもりはない。しかし一般人を巻き込む事だけは感心しないな。これ以上好き勝手に暴れるつもりならば、私にも考えがあるぞ」
「あら、わたくしとやり合うつもりですの?確かにあなたの、その石のように変わらない表情を叩きのめして、ぐちゃぐちゃに歪めてみたいとは思っていましたの。これはちょうどいい機会かもしれませんわね」

ソディの武器が巨大なハンマーに変わる。文字通りあれで叩きのめすつもりなのか。対するマツバは何も武器は持たぬまま、静かに拳を握る事無く構える。あまりにゆったりとした構えに、ハルが心配になるぐらいだった。しかしそんな思いもすぐに消し飛ぶ事になる。ハルの目の前に、先ほど通り過ぎた緑の風が再び吹き荒れたからだ。

「うわっ何なんだよこの風は!」
「良く見てみるがいい、これはただの風ではない。……私の武器だ」
「へっ?」

マツバの言葉に、ハルは風の中で目を凝らした。夜の中でも、はっきりとした緑が見える。それは背の高いマツバよりも少し高く、そして大きかった。この場に風を作り出していた翼がはためく。あっけに取られるハルの目の前で、それはマツバの隣に降りてきた。鋭い眼光、尖った牙、力強い足、太く長い尻尾、そして大きな羽。ハルはその生き物を、本の中で見た事があった。本の中でしか見た事が無かった。

「りゅ、竜……?!」

ハルの驚愕した声に答えるように、美しい翡翠のような体色の竜は高らかに吠えた。その迫力は背後から見つめているだけでも凄まじい。しかし対峙するソディは見慣れているのか、毛ほども怯えた様子は無かった。

「そのはったり竜でわたくしとやり合おうなんて、見くびられたものですわね。いいですわ、ハル様とのお楽しみは後に取っておいて、先にあなたと遊んで差し上げますわ」

ソディが凶悪なハンマーを構える。マツバは迎え撃つように手を広げ、隣の竜が飛びかかる準備をするかのように身を屈める。一触即発な緊張の場面に、すっかり蚊帳の外となってしまったハルが息をのむ。その息を今度は吹き出す事になってしまったのは、聞きなれた声が夜の空き地に響いたためであった。

「ハル!」
「えっ?今の声は……カエデ?」

ハルが声に反応して振り返ったと同時に、目の前に漆黒が広がる。この黒さは間違いなくカエデだ。確信を持って視線を上にあげればやはり、燃えるように輝く緋色の瞳を見つける。その瞳は今、心から心配そうにハルを見つめていた。

「ハル、大丈夫?まさかこんな事になっているなんて……気付かなかったなんて、私は守護騎士失格だ……」
「いっいや、それはいいから、お前何でここに?部屋で待ってろって言ってたのに」
「おおっヒメったらチビの言う通り超絶ピンチじゃん!カエデ様駆けつけてよかったねえ」
「ヘリオまで?!」

カエデの後ろからのんびり歩いてきたのはヘリオだった。ヘリオがチビと呼ぶ人物を、今の所ハルは一人しか知らない。

「ハクトさんが?」
「そうそう。天使のような寝顔で健やかに眠る俺様をヒメが危ないって言っていきなり叩き起こしやがったの。せっかく美女に完膚なきまでに叩きのめされる幸せな夢を見ていたのに」

唇を尖らせるヘリオの周りにハクトの姿は無い。その事について疑問に思う前に、この状況に変化が訪れた。ソディが手に持っていた武器を巨大なハンマーから最初に見た短いナイフに変化させ、ポシェットに仕舞い込んだのだ。

「こんなに騒がしくなってしまっては、せっかくの極上の獲物も十分に楽しめませんわね。今日の所は諦める事にしますわ。マツバ、この勝負は一時お預けですわ」

一方的な宣言だったが、マツバの方ももう争う気はなさそうで、隣の竜を制止するようにゆっくりと撫でている。その時、ソディに注目したヘリオが、間抜けな声を上げた。

「……えっ?」
「ヘリオ?」

かつてないほど目を丸くして驚いている様子のヘリオに、ハルは首を傾げる。ソディが見た目的にも性格的にも好みの女の子だったのだろうかと考えたが、違ったようだ。ヘリオは震える指でソディを指差し、歓喜の声を上げたのだ。

「まさか君、ソディちゃん?その髪その目は間違いなくソディちゃんだよね?うわーっ久しぶりー!俺様の事覚えてる?昔から可愛かったけど、より一層美しく気高く成長したんだね、さすがソディちゃん!」

一人で沸き立つヘリオを、ソディは冷たい瞳で一瞥した。二人の間には、かなりの温度差があるようだった。

「ヘリアンサス様、よくもその情けない面を下げてわたくしに声を掛けられたものですわね。わたくしがあなたにどんなに失望したか分かっていらっしゃるの?」
「そ、ソディちゃん……」
「わたくしはこれで失礼いたしますわ。それではハル様、またお会いいたしましょう。今度こそ、二人きりで!」

最後にハルに向けてにっこりほほ笑んだソディは、止める間もないほどの速さで空き地を飛び出した。辛うじて反応したマツバが一歩踏み出すが、その間にソディの姿はどこにも見えなくなってしまった。恐ろしい逃げ足の速さである。後に残された一同はあっけに取られるしか無かった。特にヘリオは、腕を微妙に上げたまま固まってしまっていた。二人の関係はさっぱり分からないが、先ほどのソディの冷たい目と言葉を思い出すと、その後ろ姿がさすがに可哀想になる。

「ソディちゃん、やっぱり俺様の事軽蔑してるみたいだったなあ……」
「お、おいヘリオ……」
「あの冷えた視線……最っ高!昔から俺様の事をああいう虫けらを見るような目で見てくれていたけど、さすがソディちゃん磨きが掛かってたよ!情け容赦ない言葉も堪らなかったなあ……やっぱりソディちゃんは生まれながらの女王様だよ」
「………」

一瞬でも同情してしまった己が馬鹿だったと、ハルは反省した。慰めるのはあっさりやめて、ヘリオを問いただす事にする。

「ヘリオ、お前あいつと知り合いなのか?一方的に嫌われてるようだったが」
「ああうん、ソディちゃんとは家が近くて、幼馴染みたいなものなんだ。昔はもっと仲良かったんだけど、しばらく会わないうちにあんなに嫌われちゃってたみたい」
「ソディとお前ならSとMで合いそうな気がするけどな……」
「でも俺様の方こそびっくりしたんだけど!ヒメとソディちゃんが知り合いだったなんてまったく知らなかったし!しかもそこの美人は一体誰?」

ヘリオに言われて、ハルはようやくマツバの存在を思い出した。しきりにハルの様子を気にするカエデを何とか押しのけ、マツバに向き直る。

「マツバさん、真剣に危ない所を助けてくれてありがとう。ああそうだ、名乗り忘れてたな……俺はハル、こいつらはカエデとヘリオで、俺の一応仲間だ」
「マツバと呼んでくれ、ハル。こちらこそ私の連れが迷惑を掛けてすまなかった。ああいう性格だが、見境なく人を襲う事は無いと思っていたんだが……まったく。君の何がソディを駆り立てたんだろうな」
「それは……」

マツバの口ぶりからすると、ソディがハルを襲った目的を知らないようだ。一瞬そのまま言ってしまおうとしたハルだったが、開きかけた口を閉じて思い直す。先ほどマツバは、ソディの事を「仕事仲間」だと言っていた。そしてソディの仕事というのは……本人が言っていたのだから間違いない、宝珠を集める事である。つまりこのマツバも、同じ仕事を持っているとすれば。

「……いきなり呼び出されて襲われたんで、俺にもさっぱりだな」
「そうか。私もあれとは付き合いがそれほど長くないものでな、何を考えているのやら……」

心から困ったようにため息をつくマツバに、同じような変態が身近にいるハルは申し訳なく思ったが、やはり宝珠の事を話すのはやめておこうと思った。ただでさえ命の危険にさらされた直後なのだから、回避できる危機は避けておくに限る。
とここで、ハルとマツバの間に首が差し出され、会話が中断した。ずっとマツバの隣に佇んでいた緑の竜であった。一気にその竜の存在を思い出したハルは思わず飛び退き、代わりにカエデが警戒するように一歩前に踏み出した。

「うおっ竜!」
「駄目、ハルを食べるなら容赦しない」
「ああ確かにヒメの頭って桜餅みたいで美味しそうだもんね」
「色だけだろそれ!」
「安心してくれ、見た目は確かに恐ろしいかもしれないが、こいつは私の命令が無ければ人を襲う事は無い」

カエデに攻撃されないようにマツバが腕を広げる。言われてみれば確かに、竜は鳴き声さえあげることなく静かにマツバへ付き従っている。体色よりも濃い純粋な翡翠色の竜の瞳からも、こちらへの敵意は感じなかった。ハルはおそるおそる、カエデの影から竜を見つめた。

「そっそいつ、本当に竜なのか?話に聞いていたより小さいんだが……」
「いや、本物の竜とこいつは少し違うんだが、まあほとんど同じようなものさ。私が、そうイメージしたからな」
「は?」
「さて、話し込んでしまったな。私はソディを追わなければ。あれの家族に、ソディの事を頼むと言われているのでな」

マツバの言葉をいまいち飲み込めないハルだったが、考えている暇は与えられなかった。マツバが合図を出して身をかがめさせた竜の背中に乗り、すぐにそのまま宙へ浮いてしまったからだ。竜が翼を動かすたびに吹き荒れる風のせいで、上手く目を開けていられない。

「まっマツバ?!」
「ソディの事は私に任せてくれ、これ以上君たちを襲う事が無いように監視しておこう。それじゃあ、これ以上出会う事のないように」

片手をあげて微かに笑ってみせたマツバは、直後に竜が飛び立った事によってすぐに見えなくなった。夜の空では緑色の竜を目で追い切れるはずもなく、どちらに向かって飛んでいったかも分からない。マツバの姿を探す事を早々に諦めたヘリオが、ハルを振り返る。

「んで、これどーいう事?結局ヒメとソディちゃんの関係って何?あのマツバって子は何なの?俺様、さっぱりなんだけど」
「俺だってさっぱりだよ……そういやヘリオ、ハクトさんはどうしたんだ」
「あれ、そういやいないな。あのチビまさか、俺様を叩き起こしたくせに自分は呑気に寝てるんじゃ?!そんな、この俺様を下僕のようにこき使うなんて……悔しいっ気持ちいい!」
「宿にいるのか?とりあえずここにいても仕方ないし、一旦宿に戻ろう……今日は疲れた……」

自分の世界にあっさり飛び立ったヘリオは放っておいてハルは歩き出す。がしかし、右手を引っ張られてすぐに元の位置に戻ってしまった。たたらを踏んだハルは腕を引っ張った主、カエデを睨みつけた。

「おまっカエデ、何しやがる!話なら宿に帰ってからゆっくりと……」
「ハル、怪我してる」
「へ?」

カエデが腫れ物に触るような手つきで大事に持ち上げるハルの右手の甲からは、擦れて血が滲んでいた。ソディに踏まれていた跡だろう。むしろあれだけの目に合ってこれだけしか怪我をしていない方が奇跡だ。

「あーこれか、ただのかすり傷だよ、気にすん……」

な、と言いかけたハルの言葉が思わず止まる。顔を上げた先に、非常に悲しそうにうつむくカエデの姿があったからだ。まるで今にも泣き出しそうに落ち込むカエデを見て、ハルは一気にパニックに陥る。何故、カエデはこんなにも悲しそうなのか。

「どっどうしたんだカエデ?!お前こそ何もしてない癖に怪我したんじゃ?!」
「私が傍にいれば、ハルの事を守れたのに……でもそうしていたら、ハルの命令を破る事になっていた。私は一体、どうしたらよかったんだろう」
「か、カエデ……」
「ハルの怪我を見ていると、この胸の奥の方がぎゅっとなって、喉のあたりが詰まったようになって、頭の中がぐるぐるする。ハル、私は何か病気になってしまったのかな、とても変なんだ」

カエデの声は悲痛に溢れていた。ハルの命令を破ってはいけない事と、ハルの事を守らねばならない事と、その両方がごちゃまぜになってカエデを苦しめているようだ。ハルの胸の内が、罪悪感でちくちく痛む。結果論ではあるが、やはりカエデだけは一緒に連れてくるべきだったのだ。
悲しむカエデに助け船を出すようにヘリオも意地が悪い笑顔でハルに声を掛けてくる。

「カエデ様を連れ出すの大変だったんだぜヒメー、ヒメの命令だからって一歩も部屋から出ようとしないんだもん。チビが説得してようやく飛び出してきたんだから」
「うっ……。そうか、やっぱり頭ごなしに命令するのはいけないな……」

ハルは反省した。特にカエデはハルの言う事なら何でも全て聞いてしまうから、迂闊な事は命令してはいけないだろう。そもそも「命令する」事自体、なるべくならしない方が良い。ハルは自分の右手を持つカエデの手に左手を重ねて、出来る限り優しく語りかけた。

「カエデ、悪かった……俺が命令なんかして一人で出て行ったせいで、心配かけたな」
「ハル……」
「これからはなるべく命令なんてしないし、お前も置いて行ったりしない。だからもうそんな顔すんなよ。見ているこっちがいたたまれない」
「こんな、顔?」
「自覚ないのか……まあいいや、とりあえずきっちり約束したからな。俺は約束を簡単に破るような男じゃないから安心しろ」

腕を伸ばして肩を軽く叩いてやると、やっとカエデの表情がいつものように戻った。ぱちぱちと瞬きをした後、心から尊敬するような声で驚きを口にする。

「ハル、今魔法使った?」
「は?」
「苦しかったのが、ハルの言葉を聞いただけで取れた。さすがハル、私の病気を言葉一つで治してみせるなんて……やっぱりハルはすごい大魔法使いだ」
「あー……もういいか、魔法で」

いつもの調子で瞳を輝かせ始めるカエデに、ハルはほっと息をつく。この後、ヘリオが「そんなに目の前でいちゃいちゃされると俺様嫉妬しちゃう!」と二人の間にちょっかいを掛けてくるまで、ハルとカエデの手は自然と繋がれたままだった。





真夜中だというのに騒がしい空き地の入口、陰に隠れるように立ち竦むふわふわ白い頭の子どもは、やや呆然とした様子で一人呟く。

「よもや、こうして生きているうちにこの目であの姿を見る事になるとは……これも宝珠の結ぶ逃れられぬ運命というものなのか。いやはや……」

混乱を払うように頭を振った後、金色の瞳は空を見上げる。そこに浮かぶのは、その瞳とほとんど同じ色をした、黄金色の細い月。それを真似るように、金の瞳は細められた。

「大きくなったのう……マツバ」

語りかけるような独り言はどこに届く訳でもなく、月が見下ろす夜空へと消えた。

11/11/11



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