遠くに思えていた谷間が歩みを進める道のすぐ横に迫ってきたのは、だんだんと傾いてきた太陽がオレンジ色に燃え出す少し前ぐらいの時間であった。この大きな割れ目がやがてぐねぐねと伸びるこの道を両断して目の前に横たわる事になるのだが、ヘリオが言ったようにそこには橋が掛かっているはずである。何せこの巨大な渓谷はこの一帯を東と西で完全に分断してくれやがっているので、橋でも掛けないと行き来が出来ないのだ。昔の人が頑張って掛けたのであろう渓谷の数本の橋はとても貴重で、何人もの旅人や商人たちが有難く渡らせてもらっているのだった。
しかしその橋も今日中に見る事は出来ないだろう。どんどんと空から降りてくる太陽の位置を確かめてハルは確信した。どうにも心もとない道の上だが、どこか開けた所で一晩明かしてから先に進む事になりそうだ。

「この先に野宿出来そうな場所があると思うか?ハクトさん」
「大丈夫じゃろう。この道の幅は変わらぬようじゃ、この広さであればどこででも寝る事が出来る」
「それもそうか」

一瞬、別の通行人の邪魔にならないだろうかと考えたハルだったが、それがすぐに有り得ない事だと気付いた。すぐそこに大口開けて待っている裂け目があるこんな渓谷の道を、暗がりの中歩く物好きは滅多にいないだろう。いたとすれば全力で止めなければならないぐらい危ない行為だ。つまり暗くなれば道のど真ん中で野宿すればいい。それならば進める所まで進んでしまおうと、ハルは足を速めた。
しかしそんなハルの考えに待ったの声が掛かった。

「聞き捨てならなーい!どういう事?この道のど真ん中で野宿するって事?」
「文句言うなら谷底に突き落とすぞ」
「そういうマジで殺しに来ている脅しやめてよヒメ、一晩中鞭で滅多打ちにするぞ、ぐらいが俺様的にちょうどいいんだけど」
「カエデに一晩中殴ってもらうか?」
「カエデ様はお願いしますやめて下さい」

ハルの言葉にさっそく拳を構えるカエデからそそくさと離れたヘリオは、しかしまだぶーぶー言っている。数日は渓谷から抜け出せない事をすでに伝えているのに往生際が悪い。カエデ様の力が普通の女の子並みだったらご褒美なのになーと下らない事を呟いている、かと思えば、何かを思い出したように得意そうに話しだした。

「ヒメってば俺様にそんな態度取ってもいいのかなー。この渓谷経験者の俺様がたった今思い出した極秘情報、聞かなくてもいいのかなー」
「はあ?極秘情報?今思い出したぐらいだから、別に重要でも何でもないんだろ」
「とんでもない、これは俺様を馬車に乗せる権利を与えられた選ばれし御者がその名誉に感動して特別に教えてくれた事なんだけど」

要約すると、馬車に乗った際その御者の人から教えて貰った情報らしい。また下らない戯言が始まったかと、ハルはかなり話半分でそれを聞いた。

「この渓谷って、町からかなり離れているしデコボコとした地形だから、そりゃもう色んな奴が隠れ住んでるんだってさ」
「ふーん」
「例えば国を追われた犯罪者とか、希少価値の高い少数民族とか、ここにしか生息していない珍しい生物なんかが、岩の陰とか谷底なんかに隠れてるらしいよ!いやーロマン溢れるよねえ」
「ふーん」
「中でも特に気をつけなきゃならないのが、山賊だってさ!こういう人気のない道で商人なんかを襲って金品巻きあげるんだって、怖いねーもし遭遇したらダイアモンドにも匹敵する輝きを持つ俺様も盗まれちゃうかもねー!」
「ふーん。……山賊?」

不吉な単語にハルは反応した。なるほど確かにこんな道で山賊なんかに襲われれば逃げ場もないし助けもこない。向こうにとっては都合の良いシチュエーションだろう。この渓谷を往復する馬車の御者ならそういう話に詳しいのも頷ける。ハルは急に恐ろしくなって、何とか憎まれ口を捻り出した。

「ふ、ふん、この渓谷はでっかいんだ、その山賊が都合良く俺達の前に現れる訳がないだろ。そもそも俺達のどこが金持ってるように見えるんだ、こんな一行襲ったって得にならないっつーの」
「でもハル、昨日絵を売って沢山お金もらってた」
「カエデ、余計な事は言うな。山賊に聞こえる訳は決してないが、縁起が悪いから言うな」

ハルに諭されてごめんと謝ったカエデは、前を見て気を取り直したように尋ねかけてくる。

「ハル、山賊って……」
「ん?何だ?」
「ああいう人たちの事を言うの?」
「あ?あー……どこか小汚い格好、手に持った凶器、人相の悪さ、下品な笑い方、確かにああいうのは山賊のテンプレみたいなもんだな」

カエデが指差したのは前方だった。それを見てハルが読み上げた通りの男達が数人、ゆっくりとこちらへ近づいている所だった。それもまるで道をふさぐように広がって歩いてくる。迷惑だな、とハルは思った。その後気付いた。

「って山賊!あれ山賊じゃないか?!」
「ハム、さすがに反応が遅すぎはしないか?」
「いやだってその話をしていた今の今、まさか目の前に現れるなんて思わないだろ!そっそれより本当に山賊なのか……?」

まだ別の可能性が残っているのではないか、とハルは往生際悪く考えた。あれはかなり山賊風な雰囲気を醸し出しているが、実は普通の旅人達なのかもしれない。人は見た目で判断してはいけないと、小さい頃から姉に教えられて育ってきたではないか。まだそうやって決めつけるには早いのではないだろうか。
緊張に固まるハルが見守る中、とうとう数メートル先まで迫ってきた山賊風の人たちはようやく足を止めた。そうして大小様々な刃を手に持ったその人たちは、腕を振り上げて大声で叫んでくる。

「俺たちは山賊だー!お前ら命が欲しけりゃ金目のものよこしな!」
「山賊だ」
「山賊だったねえ」
「山賊じゃのう」
「分かった……分かったからもういい……」

突きつけられた現実にハルは肩を落とした。やっぱり男達は山賊だったようだ。まるで狙ったかのような登場のタイミングに、まだ心がついてこない。山賊たちは余裕たっぷりの笑みを浮かべながらそんなハル達を観察してくる。どうやら完全に舐め切っているらしい。

「見ろよ、頼りなさそうな男二人に女と子どもときたもんだ、今日の獲物は楽勝すぎるぜ」
「金を持っているようには見えないがな」
「いや、あの金髪は育ちがよさそうな面してやがる、何かしら金目のもんを持ってるに違いないさ」

こっちに丸聞こえの会話も、油断しているからであろう。ハルはじろりとヘリオを睨みつけた。

「おいどうすんだよ一文無し、お前の見た目のせいで山賊に狙われたぞ」
「いやー俺様のこの非凡で高貴な光り輝くオーラが抑えきれなかったみたいだね、ごめんごめん!」
「やっぱり谷底に突き落としておくべきだったか……」
「だから、カエデ様にヒール履かせて一晩中踏みつけさせるぞ、ぐらいのご褒美が俺様的には一番なんだって。あっ言葉責めもプラスで」
「だれが褒美をやるか!」

ついうっかりつっこんでしまっている間に、山賊たちはぐいぐいと距離を詰めてきていたらしい。いきなり喉元にのびてきた刃の切っ先にハルは一気に顔色を青くさせて動きを止めた。

「ぎゃあっ!」
「おい聞いてんのか、金目のものを出せと言ってんだよ!」
「そ、そんなもの持ってない。俺たちはただの貧乏旅人なんだよ、ちなみにこの金髪は俺にたかってる一文無しだ、悪いか」

両手を振って、ついでにヘリオも指差して金なんて持ってないアピールをするハル。しかし山賊たちはにやにやと嫌な笑みを変える事は無かった。自分達が有利だと確信しているのだ。

「ほほーう?それなら仕方ない、身売りでもするか?お前の連れはそれほど見た目が悪くないから、良い値段で売れるだろうなあ。特にその女は」
「なっ?!」

カエデの事をいやらしい目で見るんじゃない!と怒鳴りつけようとしたハルだったが、その前に山賊たちに残念そうな目で見つめられて言葉に詰まる。その瞳には同情的な気持ちさえ浮かんでいるように思えた。

「だがお前はなあ……まずその髪色がなあ……」
「女だったら売れただろうなあ、遠目から見ておっ?と思ってたのによう」
「くくくっ男でそのピンクの髪色なんてな、赤の他人といえどさすがに気の毒になるぜ!」
「いっそ坊主にでもするか?色自体は綺麗なんだ、髪だけは売れもんになるんじゃねえかぎゃははは!」

言いたい放題、最後には指を差されて笑われてしまう。ハルの心に最早恐怖心はなかった。次々と込み上げてくる怒りによって上書きされてしまっていた。刃は突きつけられたままだったが、今ならこんなもの叩き落として殴りかかるくらいの度胸が生まれている。本当にそれを実行に移そうと、ハルは固まっていた身体を身じろぎさせた。
その間に一歩、隣から躊躇いも無く出された足があった。そしてそのままハルに刃を突きつけていた男の頬に、固い拳が勢いよく叩きつけられる。笑っていた山賊はその表情のまま軽くぶっ飛ばされ、道の端まで受け身を取る事も出来ずに転がって行く。一瞬あっけに取られた仲間が慌てて助けなければそのまま谷に落ちていただろう。
突然の出来事に頭がついて行かないのは山賊だけではなくハルも同じであった。ぽかんと口を開けたまま、少し前に立つ長い黒髪を見つめる。

「か、カエデ?」
「この男達……ハルを馬鹿にしていた」

基本的にいつもほとんど表情の変わらないカエデだったが、今この時の声は気のせいか、すこし憤っているような気がした。覗き込めばその緋色の瞳もまるで怒りに燃えているように見える。本人に自覚があるのかは分からないが、どうやらカエデは怒っていた。

「ハルの事を笑った。しかもハルに刃を突きつけた。……許さない」
「お、おいカエデ落ち着け、いや助けてくれたのはすごく有難いけど、とにかく落ち着け!」
「ふむ、ハムの生命を脅かされた事よりも、ハムが馬鹿にされた事に怒るか。……なるほどのう」

ハクトが後ろで何やらぶつぶつ言っているが、気にしている暇が無い。放っておくとカエデがこのまま山賊に一人でどんどんと立ち向かっていってしまいそうで、ハルは慌ててその腕を掴んで引き止めた。

「ハル、どうして?山賊は悪い人たちだと前に教わった事がある、だから倒さなきゃいけない人達なのに」
「たしかにそうだけど、お前素手だろ。人を殴る時は自分の拳だって傷つくものなんだ、所構わず殴るんじゃない」

ハルの注意に、カエデは心の底から不思議そうに首を傾げる。

「私の傷は、宝珠からの力ですぐに治るから大丈夫」
「でもお前、痛みは感じるんだろ」
「うん」
「なら駄目だ、一時的とはいえそんな痛い思いしながらお前だけが戦う必要は無い。もっと別な方法にしよう」

カエデはいまいち納得がいかない顔で首をひねりながら、それでもハルの言う事なので頷いた。とりあえずもうあの強烈なパンチは飛んでこないのだと、呆然と見守っていた山賊たちにも分かったようで、気を取り直したように武器をちらつかせる。

「こ、この女、やってくれたな……!」
「そこまで強いだなんて思っていなくて油断していたが、所詮は武器も持たない女……」
「俺達に逆らうとどうなるか、思い知らせてやる!」

言葉だけは非常に威勢が良いが、その腰は少し引けている。そんな山賊たちを眺めながら、カエデはハルに尋ねた。

「なら、蹴って倒すのならいい?」
「ああ、蹴るならまあ、靴履いてるからいいか」
「「ひいっ!」」

ためしに振り上がったカエデの長い足がヒュッと宙を薙ぐ。そのスピードは目で追う事が出来ず、常人のものより明らかに早い。それを目の当たりにした山賊たちの口から自然と声が漏れていた。殴られた一人は未だに目が覚めない所がまた恐怖を煽る。そこに追い打ちを掛けるように、本を片手にハクトが一歩踏み出した。

「やれやれ、こんな道端で足止めされてはかなわんのう。こやつらには早く退いてもらいたい所じゃが」
「な、何だとこのガキ、生意気な事を!」
「大人を馬鹿にしやがって……俺たちは山賊だ、ガキだからって容赦しねえぞコラ!」

一人一際威勢良くハクトへ刃を振りかぶった山賊がいたが、その男は一瞬のうちに全身を焦げさせるだけで終わった。ハクトの本から放たれた電撃が、男を早々に直撃したからだ。声を上げる暇もなく魔法を食らい、その場に音を立てて倒れる仲間に山賊たちは悲鳴を上げて後ずさった。さっきから女が強かったり子どもが強かったりと予想外な事が起こりすぎて、最早パニック寸前であった。明らかな戦力差に、ハクトも余裕のため息を零す。

「ふん、他愛もない」
「ここですかさず俺様も一歩!」
「お前は何もできないんだから黙って下がってろ!俺もだけど!」

調子に乗って踏み出してくるヘリオもそれにつっこむハルも、後はこの山賊たちが尻尾巻いて逃げ出すのを待つだけだと思っていた。カエデだけが山賊を一人一人蹴り上げる予定を頭の中で立てているようだが、それをしなくてもビビりまくりな山賊たちはこの場から退散していくだろう、と。きっと山賊たちのほとんども、そう思っていただろう。
だがしかし一人だけ、まだ戦意が喪失していなかった者がいた。山賊たちの中で一番背が高くガタイも良い、リーダー的な存在の男だった。山賊としてのなけなしのプライドもあってか、恐怖と怒りに震える腕が何とか持ちあがった。男の心には打算とか勝機とかそういったものは一切無く、目の前の敵をただひたすら倒さなければいけないと言う考えに支配されていた。だからこそ下手な小細工は一切思い浮かばず、真っ直ぐ斬りかかる事ぐらいしか出来ない。しかし今は、それで十分だった。
一番近くにはカエデが立っていた。しかしカエデはちょうど、弱い者いじめはだめだとハルに止められている所だった。さっきまで山賊たちに注意を払っていたのに、話しかけられた事で視線を逸らしていた。その完全に油断し切った姿目がけて、山賊リーダーの刃は襲いかかった。カエデが反応し切れないタイミングで。

「食らえええ!」
「っ?!」
「カエデ様!」

その光景をハルは斜め後ろから見ていた。カエデが山賊の雄たけびに反応して振り返るのと、男が刃物をカエデに振り下ろすのが、完全に同じタイミングだった所。そしてその間に、素早く反応した何かが飛び込んだ所。刃がカエデを見失い、その飛び込んできた何かの胴を切り裂いた所。切り裂かれた部分からハルの宝珠やカエデの瞳よりも赤い、もっと貪欲に赤い液体が吹き出した所。
斬りつけられた衝撃でこちらに見えたその横顔が、金髪の隙間から見えた青い瞳が、少しだけ笑っていた所を。

「へ……ヘリオオオオーッ!」

12/01/28



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