快晴であった。茶色の大地とモノクロな色に染まる岩しか見えないこの渓谷にも、日の光は平等に降り注がれている。もしこれで雨でも降っていたら、脇に除く谷の底へと足を滑らせていたかもしれない。雲もほとんど見えない今日の天気は、この渓谷を歩む者達にとって非常に幸運な事であった。
そしてこの素晴らしき天気を、全身で喜ぶ者がここにいた。
「いやあ何て気持ちの良い天気だろうねー!これは天の女神が俺様の美貌をこの枯れた大地に咲く麗しい花のように余すことなく照らし出したがっているからに違いないな、うん!つまり俺様は天下の晴れ男ってことで、どう?」
「今すぐ枯れてくれ」
「わーおさっすがヒメだ、昨日の今日なのに全然優しくないぜ!」
昨晩は珍しく少ししおらしい姿を見せたと思ったヘリオは、朝起きたらいつも通りのウザい男に戻っていた。自制というものが無ければ今すぐ殴ってしまいたいほどのテンションのヘリオを見て、少しだけホッとしているなんて死んでも言えないなとハルはこっそり思った。何にせよ、じめじめと湿っぽい空気を醸し出すよりは、この気持ち良い晴れ模様のように元気でいてくれた方がこちらとしても気が楽なのである。
「それで?こんなに良い天気なのに俺様は一体いつまでこの不毛な景色を歩いていかなきゃならない訳?」
「うるせえ、もうすぐこの谷間を超えるための橋が見えてくるはずだ。それを渡り終えれば後一日で渓谷ともおさらば出来るだろ」
「少なくとも後一日は似たような道を歩くって事ね……あーあ、背中から鞭をビシバシ振り下ろしながらさっさと歩きなって罵倒してくれる女王様でもいてくれたら俺様頑張れるんだけどなあ」
「頑張らなくてもいいからお前はただ黙って歩いてろ!」
ぶつくさ文句を言うヘリオを怒鳴りつけながら、ハルの目は周囲を見据えていた。その緊張がなかなか抜けない姿に、いつも通り本を読みながら軽快に歩くハクトがふと声をかけてくる。
「そんなに気を張っているとすぐに心が疲弊するぞ、ハムよ」
「ああ、いや……昨日ハクトさんとカエデが追い返してくれたけど、またいつ山賊が襲ってくるか分からないと思うとどうしても気になってしまってさ……」
悲鳴を上げて逃げていったあの山賊たちを思い出せばそんなにすぐに舞い戻ってくる事は無いだろうと分かってはいたが、それでも怖いものは怖い。そんなびくびくするハルの服の裾を、カエデが柔らかく引っ張る。
「ハル、大丈夫。今度は姿を見せたすぐに私が倒すから」
「そ、そうだな……ありがとうカエデ、でもやりすぎるなよくれぐれも。山賊だけだからな」
カエデの言葉は頼もしいが、目の前に現れた人物を誰でも問答無用で谷底へ突き落していきそうな気がして少し不安だ。この人通り少ない渓谷の狭い道ですれ違う人がいないことを切に願うしかない。
しかしそんなハルの思いも、しばらく歩いた後すぐに叶えられない事を知る事となる。
「誰かいる」
「えっ?」
急に呟いたカエデの言葉に思わずハルは立ち止まる。隣に並んだカエデは、前方を指差してみせた。ここから先の道は若干カーブになっており、先がどうなっているかが確認できない。その隠れた向こう側をカエデは指していた。
「この先に誰かの気配がする」
「ま、マジか?でもこの先は確か、もう橋が見えてくる頃だったはずなんだが」
ハルがしまっていた地図を引っ張り出す。ここまでほぼ一本道だったのでこまめなチェックはしていなかったのだが、歩いてきた距離と時間を考えれば間違いなくこの地図の通り、向こうには渓谷に掛かる橋が見えるはずである。という事は、橋を渡って向こうからこちらに渡ってきた誰かがいるのだろうか。
カエデの言葉に本から顔を上げたハクトも、前方を見据えてふむと唸った。
「なるほど確かに誰かおるようじゃ。数は一人、山賊どもではないじゃろうな」
「そうか……それなら安心だな」
「しかし気配が動かぬな。立ち止まっているか、座っているか、どちらにしてもその場に留まっているようじゃ」
「留まっている……?」
こんな険しい道の上で留まる理由とは一体なんなのか。不安に思うハルだったが、このまま立ち止まっている訳にもいかない。意を決して歩き出す。
ゆっくりとカーブしている道を進み、目の前に開けた景色を見たハルは……呆然と、立ちつくしていた。
確かに一人の男が道の端に疲れた顔をして座り込んでいた。大きな荷物を脇に置いた、いかにも旅人風の男であった。しかしハルを呆然とさせたものはその先に広がるものである。男の先にはぱっくりと割れた谷が広がっていて、その真ん中に頑丈な木で出来た橋がかかっているはずだ。かかっている、はずだった。
「は、橋が……無い?!」
ハルの驚愕の言葉の通り、橋は無かった。正確には、その残骸だけがほんの少し残っているだけだった。辛うじて見える向こう側と、こっち側、それぞれに欠片を残したまま、橋は見事に消えてしまっていたのだった。
「やあ、君たちもこの渓谷を越えるつもりで来たのかい?」
座り込んだまま男が話しかけてきた。まだ少し呆けたまま、ハルは男に近づいて頷く。
「ああ、あんたは?」
「私もそのつもりでここに昨日辿り着いたんだが、すでにこの有様だったんだよ。とりあえず一晩明かして少しのんびりしていた所だったんだ、これから来た道引き返さなきゃならないと思うとねえ。急がない旅だからいいけど」
のんびりと男は言うが、ハルはそれどころではない。切羽詰まっている訳ではないが、急いでいる事に変わりは無いのだ。完全に落ちてしまっている橋の残骸を見つめて、絶望に頭を抱える。
「まっマジかよ……ここまで来て橋が壊れているなんて!一体何でだよ!」
「俺様が渡ったのはそんなに前じゃないはずだけどねえ。しかし見事に落ちちゃってるねこれ」
横から覗き込んできたヘリオもあまりの有様に感嘆の声を上げる。ハクトも本をしまってじっくりと眺めまわしている。カエデは落ち込むハルが気になる様でじっとその桜色の頭を見つめていた。
四人それぞれの反応を見せる一行に、男は呑気な笑い声をあげた。
「本当に残念だったね、他の橋はここからずっと離れた所にしかないから、その気持ちはすごく良く分かるよ」
「へー、どれぐらい遠くにある訳?」
「そうだなあ、ここから戻って別な橋に辿り着くまで、一週間はかかるかもね」
「ああーそりゃまた随分と遠い場所になるね、それならヒメがここまで落胆するのも分かるわ」
ヘリオが珍しく慰めるような事を言うが、ハルの心境はがっくりと落ち切ったままだ。膝をつき、両手をついて心の底から項垂れる。山賊に襲われてまでやってきたのに、その苦労は水の泡だったのだ。しばらく立ち直れそうにない。
その間にゆっくりと立ち上がった男は、四人に片手を上げて歩き始めた。もちろん、今ハル達がやってきた道を戻る方向へ、だ。
「それじゃあ私は先に行くよ。君たちも無理をせずに戻った方がいい。まあどんなに無理をしようとしても、ここを渡るには飛んでいくぐらいしか出来ないだろうけどね」
あははとマイペースに笑いながら男は歩き去って行った。残されたハル達は、しばらく朽ちた橋を前に呆然と立ち尽くす。その沈黙に耐えかねた、訳ではないだろうが、カエデがハルに声をかけた。
「ハル、どうして橋がないの?」
「そんなの俺が聞きたいよ……どうして橋が無いんだよ、こんな跡形もなく」
「確かに踏み外して壊れたレベルを遥かに越えておるな。何か巨大なものが落ちてきたか、爆破されたか、どちらにしても修復は困難じゃろうな」
興味深そうなハクトの言う通り、専用の職人がこの場にいてもおそらく一日二日では修復し切れないほどの規模であった。よろよろと立ち上がったハルだったが、すぐに道を引き返す気力は出てこない。見つめていても橋は勝手に直らない事を理解していても、ただじっと名残惜しむように目の前に立ちふさがる大地の裂け目を見つめる事しか出来なかった。
「つまり今まで歩いてきた殺風景な道をまた歩いていかなきゃいけない訳か、うわー面倒くさい!俺様にお似合いの美しい純白の翼でもあれば、さっきのおっさんの言う通り飛んで行けた所なんだけどねー」
横で無駄口を叩くヘリオに八つ当たり的にムカついてきたハルだったが、その向こうで何かを考え込み始めたハクトに気がついた。難しい顔で、何かを決めかねるように地面を睨みつけている。普段は澄ました表情をしている分、ああやって難しい事を考えている顔はやけに目立つのだ。
「ハクトさん、何か気になる事でもあるのか?」
声をかければ、ちらりと視線をこちらに移して、すぐに逸らしてしまう。らしくない態度にハルは首を傾げた。まるで何か隠すような目の逸らし方だった。
「……飛ぶ、か……。うむ、この地でこの事態、きっと運命の巡り合わせというものなんじゃろうな……」
しばらく一人でブツブツ言っていたハクトは、ようやく何かを決心したのかハルへと視線を戻してきた。
「ハム、わしに案がある」
「案って?」
「この渓谷を、橋を使わずに渡る方法じゃ」
「橋を使わずって……そんな方法があるのか?!」
ハルはハクトと壊れた橋を交互に見ながら驚愕の声を上げた。ハルの頭の中にはそんな案出ても来なかったというのに、ハクトの中には一体どんな案が閃いたというのだろうか。同じような事をヘリオも思ったようで、横から少し小馬鹿にしたような態度で口を挟んでくる。
「いやいやいやさすがのちびっ子魔法使い様の魔法でもそんなの無理でしょー!それとも何?浮くの?そのお空の雲みたいなもじゃもじゃ真っ白頭で浮く訳?ぷぷーっ確かに浮かびそ……ふぎゃーっ!」
「その方法を使うにはここから移動しなければならないのだが、どうじゃ?」
「そうなのか……それなら行くか」
ハクトの持っていた本から出てきた大きな岩の塊に押しつぶされたヘリオを見ないようにハルは歩き出した。自業自得だし、後から平気な顔してついてくるだろう。何も言わなくても後ろについてくるカエデをひきつれて、ハルはハクトに並んだ。
「それで、一体どんな方法なんだ?」
「わしの記憶が確かならば、しばらく戻ったどこかに脇道があるはずじゃ」
「脇道?そんなのあったかな……」
しばらく戻った所という事は、ハル達が通った道という事だ。ハルの記憶の中には渓谷に入ってからここまで一本道だったという記憶しかない。ずっと一本道だろうという先入観はあったとしても、脇に逸れる道があればすぐに気付きそうなものだが。
「気付かなかったのも無理は無いじゃろう、普通に歩いていれば目につかないように隠された、獣道より細いもののはずじゃからな」
「そんな道があるのか?こんな渓谷に」
「こんな渓谷だからこそじゃ。ハム、昨日エムオが喋っていた話を覚えておるか?」
「へっ?」
昨日ヘリオの話はくだらない事から重要な事まで色々と聞いた。そのどれの事を言っているのだろうかと思わずハルの口から間抜けな声がこぼれる。ちらっとその顔を見てから、ハクトは自分で話し始めた。
「このような起伏に富んだ地形には、様々な者が隠れ住んでおるものじゃ、と」
「あ、あー、山賊に会う前の事か、確かにそんな話してたな」
「してたよ!俺様が与えた貴重な情報だよ!ぐふっ」
さっそく背後に追いついてきたヘリオを肘で黙らせている間にハクトは子どもの小さい腕を上へと伸ばした。正確には、空へ立ち並ぶ険しい岩肌を指していた。
「この近くに、わしの知っている少数民族が隠れ住んでいるはずじゃ。その者たちが橋を使わずにこの谷間を渡る方法を持っておる」
「少数民族?それって……」
「さあて、見てからのお楽しみじゃ」
ハクトはもったいぶってその先を話してくれなかった。さっそく本を広げて読み始めてしまう。話しかけるなという合図だ。色々とまだ聞きたい事は残っていたが、何も言えなくなってしまったのでハルは仕方なく前を見た。ハクトの言っていた、わかりにくい脇道を見逃さないようにしなければならない。
「カエデ、脇道っぽいものを見つけたらすぐに教えろよ」
「それってどんなもの?」
「それが分からないんだよな……なあハクトさん、せめてどんな道だったかだけでも教えてくれよ」
「そこまでの詳細な記憶はこのじじいの頭には残っておらん」
「ううっ構造は完全に子どものもののはずなのに」
半分やけくそできょろきょろ見回せば、カエデも真似して首を右に左に動かす。その姿に少しだけ心を癒されながら、四人はしばらくそのまま歩いた。
どれぐらい経った後だろうか、疲れたハルに構わずずっと一人きょろきょろしていたカエデが、とうとう首の動きを止めたのだった。
「ハル」
「どうしたカエデ?何か見つけたか?」
「聞こえた」
「はあ?何が」
目よりも耳に何か入ってきたらしい。ハルがカエデをふり仰げば、カエデはぱちぱちと瞬きをしながら答えた。
「声」
「こ、声?一体どんな声だ?」
「一瞬だったから、よく聞こえなかったけど、多分子どもの声」
「子ども?!」
こんな渓谷に子どもの声が響き渡るなんて、いくらなんでもおかしすぎる。しかしハルはカエデの言葉を疑わなかった。カエデとの付き合いは決して長いものではないが、カエデは嘘をつく生き物ではないと確信していたからだ。
「一体どうしてこんな所に子どもの声が?ハクトさんの声じゃないよな?」
「違う、遠くから聞こえた」
「そうか……子ども連れの旅人かなんかがこの道を来る所なのか?それなら引き返すように言わなきゃな」
無理矢理自分を納得させたハルだったが、ぱたんと何かを閉じる音が聞こえてそちらに目をやる。ハクトだった。開いていた本をおもむろに閉じたのだ。
「どうやらついたようじゃな」
「へっ?何が?」
「目的の別れ道じゃ、カエデの聞いた声は、おそらく聞き間違いではないじゃろう」
ハルは思わずカエデを見る。カエデは何かを聞こうとするかのように目を細めて遠くを見ている。ハルがハクトに視線を戻すと、ハクトはじっと横に広がる岩肌を眺めていた。
「なあハクトさん、子どもの声が聞こえてどうして目的の場所だって分かったんだ?」
「おお、言っておらんかったか。その脇道がどうしてなかなか見つからないほどの小さな細いものかという事を」
ハクトがぺたぺたと壁を触る。やがて、一見大きな岩と岩の割れ目のような場所に立ち、確認するように覗き込んだ。その隙間は確かに小さい。小さいが、ハクトなら身をかがめてやっと通れてしまいそうなほどの割れ目であった。振り返ったハクトが、にやりと笑いながら言った。
「この脇道はな……子ども専用なのじゃよ」
第六話 竜の棲む谷
12/04/16
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