赤竜人の隠れ里の夜は思っていたよりも明るい。くり抜かれた岩の中で灯している明かりが外に漏れているだけの静かな山の中だというのに、不思議と温かな光に満ちている。それはそこに住んでいる人々の色のせいだった。竜の姿であれば全身が、人間の姿をしていてもその髪が暗闇でも光り輝いて見えるほどの鮮やかな赤色をしているおかげで、弓なりの月がか細く照らしている夜でも里の中は賑やかであった。そんな中、ハルはカエデと並んでランプの明かりを頼りに、里をある程度見渡せそうな岩の上でスケッチにいそしんでいた。

「ハル、その絵も売るの?」
「いやこれは売らないよ。別に売るためだけに絵を描いている訳じゃないしな」

もちろん売れたら売れただけ旅の資金になるのでどちらかと言えば売れた方が良いのだが、さすがに隠れて暮らしている彼らの絵を堂々と売りさばく事は出来ない。まだ食べられたくは無い。未だに竜人への恐怖心が僅かながらに残っている事を自覚して、ハルはこっそりと自分を笑った。警戒心を持つ事は知らない土地を歩く旅人としては大事な事であるが、それでもやっぱり仲間内で自分が一番ビビっている事が少し情けない。隣に座ってハルの手元を一心不乱に見つめているカエデなんて、ビビった所を見た事がないぐらいだ。
いや、そういえばカエデが驚いた姿を出会ったばかりの頃に見た事があったな、と、赤い竜が空で羽ばたく図を完成させながらハルは思い出していた。あの時はカエデの事をあまり知らなかったので何とも思わなかったが、今思えばとても貴重な表情だった。あそこまで驚愕した顔、普通の人間でもそうそう浮かべるものではない。さて、何にカエデは驚いていたんだっけ。

「ハル、その絵は完成したのか?」
「ああ。何だ、もしかしてまた欲しいのか?」
「うん」
「別にいいけど、どこに持っておくつもりだよ。そういや前に渡した絵も後生大事に懐に入れてたな……」
「もちろん、ハルから貰った大切な絵だ、大事にしまってる。この通り」
「ってまだ持ってたのかよ!」

おもむろにカエデが懐から取り出した見覚えのある絵に、ハルは思わず顔を赤らめていた。本当に何気なく描いた絵をこんなに大事にされているなんて思わなかったのだ。という事はカエデは、文字通り肌身離さず絵を持ち歩いていたというのか。……恥ずかしすぎる!ハルは絵を取り上げたい心を何とか落ち着かせて、カエデの肩に手を置いて言い聞かせる。

「いいか、今度適当な町でお前にも鞄買ってやるから、荷物はそこにいれるようにしろ。そしてその絵もこの絵ももうお前のものだからとやかく言わないが、他の人に見せびらかしたりはしない事、いいな」
「分かった」

こくりと頷いたのを見て、ハルは今描いた赤竜の絵をカエデに渡す。受け取ったカエデはしばらく、夜の闇の中見えにくいだろうに、じっと熱心に見つめていた。

「……私の、もの……」

呆れるほど絵を見続けるカエデは放っておけば夜通しこうしていそうだ。適当な所で声をかけて用意してもらった部屋に戻ろうと、ハルは夜空に手を伸ばし伸びをする。一つの絵を完成させた後は、やはり気分がすがすがしかった。今日は貴重な体験も出来たし、充実した気持ちで眠れそうだ。
その時、ハルの耳に人の話し声が微かに届いた。大人の女性の声と、子どもの声、二つ聞こえる。しかも二つはだんだんと近づいてきていた。その声が聞き覚えのあるものだという事に気付いた瞬間、ハルはカエデの頭を押さえて自らも座っていた岩の上に身を伏せていた。

「ハル?」
「しっ、静かに……」

不思議そうなカエデだったが、ハルが人差し指を口につければ再び真似をして口を閉ざす。少しだけ身を乗り出したハルが注意深く眼下を覗けば、そこには思った通りの人物達がいた。夜にも映える真っ赤な髪と、ふわふわな真っ白な髪。ツバキとハクトが戻ってきたのだ。よく目立つ金色の目が一人分しか確認できないのは、ハクトがまだサングラスをかけたままだからだろう。

「それにしてもハクト、あなた相変わらず酒を飲まないんだね、まったく張り合いが無いわよ」
「一時の快楽のためだけに思考回路が鈍るような液体なぞ飲まぬ。わしには熱い緑茶さえあれば十分じゃよ」
「本当、趣味と口調だけは立派にじじくさいんだから」

楽しそうに笑っていたツバキの雰囲気が、その時ふと変わった事にハルは気付いた。ここから表情はよく見えなかったが、きっとその顔も真面目なものに変わっているのだろう。少しだけ沈黙したツバキは、静かな声で言った。

「……ハクト、あなたまだツグミ姉さんの事、引きずってるのね」

また知らない名前が出てきた。しかし今度の名前は、今まで聞いたどんな名前よりも重く響いた気がする。ハクトは何も言わなかった。

「当たり前、か……まだその姿、してるぐらいだもんね」
「この姿は不可抗力じゃ。自分の力で治せるものではない、それだけの事じゃ」
「なら何故元の姿に戻ろうと努力をしないの?あれから何年経ったと思ってるのよ……チャンスを探していればきっと何回もあったはずよ。今一緒にいる子たちだって、宝珠を持っているんでしょ?」

ハルは自分の心臓がぎくりと音を立てて跳ねたのを感じた。ハクトが話したのか、自分で気づいたのか定かではないが、ツバキはハルが宝珠を持っている事を知っているのだ。そもそも、宝珠というものの存在を知っている事に驚いた。一般的に知れ渡っているものでは無いと思うのだが。
ツバキは徐々に激しくなっていく言葉を、微動だにしないハクトへ叩きつけていた。

「本当に戻りたいならその宝珠を奪ってしまえばいいじゃない!私も詳しく知っている訳じゃないけど、すごい力を持ってるって事だけは分かるよ。ハクト、あなたのそのちびっこい姿を元に戻せるぐらいの力を持っている事ぐらいはね。そもそもあなたをそんな姿にした力そのものだもの、出来ないはず無いわ。そうでしょ?」
「ツバキ、お主も少しは宝珠の仕組みを知っているはずじゃ。宝珠を奪うには相手の命を刈り取らねばならない事もな。それを知っていて、わしをけしかけるか?」
「今すぐしろとは言って無いわ、でもそれぐらいの気概が無いと、元になんて戻れないわよ。ハクト、私にはあなたが今の姿に満足しているように見えるの。ツグミ姉さんへの贖罪のために。本来なら、そんな事必要無いのに……!」

ツバキは肩で息をしている。実際に息が切れた訳では無く、次々とあふれ出てくる感情を抑えきれないでいるのだ。しばらくその場に静かな時間が流れる。聞こえるのはツバキの息をする音ぐらいで、ハルは衝撃と緊張で跳ねまくる自分の心臓の音が漏れ出ていませんようにと祈るばかりだった。
息がつまるような沈黙を破ったのは、ようやく自らの呼吸を整えたツバキだった。

「……ごめんなさい、私一人で熱くなって。引きずっているのは、私も同じね……」
「無理もない、群れの中でツグミと一番仲が良かったのはお主だったじゃろう」
「私なんて。あなたとグロウに比べたら、ただ後をついて回った妹分ってだけよ。本当、皆群れが違ったのに、不思議と三人仲が良かったわよね、あなたたち……」

ツバキの最後の言葉は、懐かしさに浸かって掠れて聞こえた。頭の中に、それほどの懐かしい光景が広がっているのだろう。

「……今の私の話、忘れて。あなたがとっくの昔に決めた事、今更私が何を言っても変えられないわよね。それだけの覚悟で、あなたは群れを出たんだもの」

寂しそうに呟くツバキに、ハクトは小さなため息をついたようだった。それがツバキに向けてか、己自身に向かっているのか、聞いているだけのハルには分からなかったが。

「ツバキ、すまぬな。未だに心配をかけておる」
「……謝るぐらいだったら、群れに来てくれた方がよほど安心するのだけど。あなただったらどんな姿だって歓迎するわ」
「それは出来ぬ。わしにはやらねばならない事があるのでな。そのために群れを抜けた、もう戻る事は無いじゃろう」
「そう……残念ね」

心から本当に残念そうなツバキは、しばらくハクトを名残惜しむように見つめていたが、それ以上詰め寄る事はなかった。漂っていた重苦しい空気を振り払うように、闇の中で手を振ってみせる。

「ついついこんな所で話しこんじゃったわね。今日は遅いからもう寝ましょ。明日にはちゃんと向こう側に送り届けてあげるから、安心して」
「うむ、頼んだぞ」
「ああそれから、戻らなくてもいいからこれからもちょくちょく顔ぐらい見せなさいよね。こうしてたまに会って話すぐらいいいでしょ?」
「そうじゃな……善処しよう。しばらくはハム達の旅に同行するから、叶わんじゃろうがな」
「ちぇっ、仕方ないか。まあ今日久しぶりに会えただけでも、良しとしましょ」

それじゃあ、と踵を返して歩き始めるツバキ。途中で足を止めて、振り返らずにハクトへ話しかけた。

「『あの子』の事、聞かないの?」
「……ここに来る途中、ちらと見かけた。元気そうじゃったな」
「そう、それならよかった。いつか『あの子』にも、本当の事を話せる日が来れば、いいんだけどね」

それっきりだった。軽く手を振ったツバキは、今度こそ足を止める事無く歩いて行ってしまった。その場にはじっと立ちつくすハクトと、岩の上から息をひそめて成り行きを見守っていたハルとカエデが残される。やがてツバキの姿が見えなくなってからしばらく経った後、これ見よがしに大きなため息をついたハクトが、おもむろに声を上げた。

「そろそろ出てきたらどうじゃハム、カエデ」
「うっ……!ば、ばれてたのか」

はっきりと名前を呼ばれてしまえば出ていかない訳にはいかない。岩の上から申し訳なさそうに降りてきたハルとカエデを、ハクトはサングラス越しに睨みつけてきた。あの威圧的な金色が見えないだけで、迫力が大分緩和されていた。

「盗み聞きとは感心せぬな。まったく、最近の若いもんときたら」
「いっいや、俺達だってその、そういうつもりじゃなかったんだよ!ハクトさんたちが勝手にここでいきなり話し始めただけで!」
「でもハル、ハクト達が来たら慌てて静かに身を隠して……」
「カエデ!余計な事は言うなっ!」

慌てるハルにハクトは呆れているようだったが、どうやら怒っている訳ではなさそうだった。ハクトの意外な柔らかい空気に、ハルは思わず胸につかえていた疑問を、聞いてみようという気になった。今の話、どうしても気になる事が多すぎたのだ。
それに、少し前シュウに教えて貰った事実を、確かめておかなければならない。

「……ハクトさん、シュウに聞いたんだが……竜人の瞳の色って、全員金色をしているって本当なのか?」

ハクトはハルの質問を咎める事無く、視線を外して空を見た。サングラスの隙間から見えるその目の色は、月と同じ金に光って見える。

「その通りじゃ」
「そっそれじゃ……ハクトさんがこの里についてからずっとサングラスをかけているのって、つまり、そういう事で……いいんだよな?」

恐る恐るだった。様子を窺うように尋ねてくるハルを、ハクトは一瞥した。周りに赤竜人が誰もいない事を確認すると、ゆっくりとサングラスを外す。その瞳には、どこか諦めにも似た光がともっていた。

「やれやれ。ここまで聞かれては、多少は説明せねばなるまい。ハム、カエデ、そこに座れ。少しだけお主の疑問に付き合ってやろう」




「いかにも、わしは竜人じゃ。周りの赤竜人を見れば、わしがこの群れの仲間では無いのは分かるじゃろう」

再び岩の上に腰を落ち着け、ハクトは答えてくれた。ハルの隣に大人しく腰を下ろしたカエデが、ハクトの全身をじっくり見まわす。

「この里の人は皆赤い髪をしているけど、ハクトは赤くない」
「さよう。わしは見た通り白竜人じゃ。この子どもの姿では、竜の姿になる事は出来ぬがな」
「は、白竜人……」

ハルがうわごとのように呟く。自分の胸の内で渦巻いていた疑惑が今確定された訳だが、それでもやはりどこか現実味を帯びなかった。今まで一緒に旅を共にしていた子ども(見た目)がいきなり竜人ですなんて言われても、実感はわかない。目の前で実際に竜にでも変化してもらえれば嫌でも納得出来るのだろうが、子どもの姿ではそれも無理だ。
子どもの姿。そこでハルははっと思い出した。

「そういやハクトさん、ツバキさんが言ってた事、本当なのか?その……ハクトさんが子どもの姿なのは、宝珠の力だって……」

聞き間違いではないはずだ。確かにツバキはさっきそのような事を言っていた。ハクトは最早隠す気もないらしく、すんなりと頷く。

「昔色々あっての。察しの通り、わしがこうして宝珠の事について調べ始めるきっかけになった出来事じゃった。しかし今更元の姿に戻ろうとは思っておらん。ただ純粋に宝珠について調べたい気持ちがあるだけじゃ」
「ど、どうしてだよ。ハクトさんの元の年齢とか知らないけどさ、そんな小さな子どもの姿よりも元の姿の方が良いに決まってるだろ!元の姿はまともに立てないぐらいよぼよぼのじいさんって訳でもないんだろ?」
「さあて。少なくとも足腰は立っておったな。もちろん理由はそんなものではないわい。このような幼子の姿をしていると色々と得する部分もある事はあるし、最早何年もこの姿でいるから、慣れてしまったのもあるのう」

ハクトの闇に光る金色の瞳が空を見上げる。夜中の空とハクトの顔を交互に見比べると、まるで二つの星が地上に転がり落ちてきてしまったように見えた。その瞳は、もう手の届かない遥か昔を見つめるように、とても遠くを見据えていた。

「……いいや、もしかしたら、ツバキの言う通りなのかもしれぬ。わしが今の現状をすべて受け入れこの姿で生きていく事を誓ったのは……自分の身勝手な思いで、故人に贖罪を示したかっただけなのかも、しれぬな」

ハクトの声はまるで語りかけるようだった。ハルでもカエデでもない、もっと別な、声も届かない遠くにいる誰かにそっと語りかけているようだった。そんな横顔に、ハルは恐る恐る口を開く。

「それは……ツグミさんって人の事なのか?」

ツグミ、と。声に出さずに口の中で呟いてから振り返ったハクトの瞳には一瞬、言葉には出す事が出来ないほどの途方もない想いが籠っていた。思わずハッと息を飲んだハルだったが、しかしその一瞬の莫大な感情は、ハクトが瞬きをする間にその心の奥深くへと隠れてしまった。
ハルの目にはその一瞬だけ、目の前の幼い子どもの顔が、歳を重ねて様々な経験を積んできた大人の顔に見えた。その幻想はすぐに消えてしまったが、愁いを帯びたその輝く瞳だけは、どんな幻でも変わる事は無かった。

12/05/31



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