正面から次々と身体に叩きつけられる風、手を伸ばせば届くのではないかと思わせるほど近くを悠々と浮かんでいる雲、眼下をものすごいスピードで通り過ぎていく地面。正確な事を言えば、竜たちの背中に乗って飛んでいる時間は、ハルが予想していたものよりずっと短かった。橋が落ちていなくあのまま順調に歩いて渓谷を越えようとしていた場合よりも、おそらく早く越えてしまっているだろう。空を飛ぶというのは、こんなにも時間を短縮できるものだったとは。つくづく未知の世界だとハルを感心させた。しかしそんな時間も、すぐに終わりが来てしまう。
本当なら谷間を越えてくれるだけで良かったのだが、どうせだからとツバキたちは険しい渓谷を丸々越えてくれるようだった。歩くはずだった道があっという間に通り過ぎて行って、ハルは自分の今まで歩いてきた旅が少々虚しく思えてしまう。しかし、今が特別な体験中なだけだ、こんな事もう滅多に味わないのだと思う事で虚しい心を落ち着ける事とする。そうだ、自分の足で歩く事に意味があるのだ、多分。

「ハル?考え込んでいるのは危ない、私が落ちないようにしっかり掴んでおくから、気をつけて」
「ぎゃあっ!も、もう考え込まない!考え込まないからもうちょっと離れろって!」

すかさずぎゅっと胴のあたりに回していた腕の力を込めるカエデに、ハルの思考は一気にこちら側へ戻ってきた。確かに今こんな場所でボーっと考え込む事は命取りかもしれないが、このまま抱きしめられている方がハルの精神的負担がきっと多い。大人しく前を向いている事にする。縮こまるヘリオの面白い背中を見つめていれば、前から大きなリュウの声が届いた。

『よう、振り落とされてないよなあんたたち?もうすぐ降りるからもうちょっとだけ頑張れよー』
「お、降りるだと?」
『おうよ!下をよく見てみろよ、もう渓谷を越えるぜ!』

リュウが張り切る様に翼をはためかせる。ハルが足の下を覗き込んでみてみれば、確かにむき出しの岩しか存在しない険しい山々はもうそこに見えなかった。だんだんと地面が平らになり、ぽつぽつと緑が見え始めている。これ以上進めばもう完全に野原となるだろう。視線を前に動せば奥の方にぽつぽつと木々も見え始めていた。前を飛ぶツバキの高度がどんどんと落ちていく。後に続く様にリュウも少しずつ地面へと近づいて行った。だんだんと大きくなってくる草の生えた地面。しかしそこで、ハルは見慣れないものを発見した。

「ハル、降りる場所に何かある」

カエデも気付いたようで、前方を覗き込んでいる。それは、この辺一帯にまんべんなく生えていた。植物だ。草原を埋め尽くす草花とは明らかに違う何らかの植物が群生しているようだった。見えるのは緑だけではない、ぽつぽつと、その植物に隠れるように何か小さな赤いものが見える。あれは、実だろうか。空の上からでは何とも判断がつかない。
だがそれももう終わりだ。風が前からでなく下から吹き上がってくるようになり、ハルはとうとうこの空の旅が終わりを迎えた事を知った。目に痛いほどの瑞々しい緑が目の前に迫っている。ここ数日不毛な大地を歩いてきた分それは目に痛いほどであった。合間に覗く赤がまた鮮烈な印象を残す。
あの実、どこかで見た事がある。ぼんやりとハルがそう考えている内に、二匹の竜は緑あふれる大地に降り立った。




『それじゃあハクト、後他の子たちも。近くに寄ったら絶対また来なさいよね、歓迎するから』
「うむ、今回は助かった。ありがとうツバキ」
『有難いと思ってるなら本当に来なさいよ?……これからの旅、気をつけてね』
「ツバキも、達者でな」

あまり長居すると通りすがった他の誰かに見られてしまうと、ツバキとリュウはハル達を降ろすとすぐにまた宙へと舞い上がった。軽く言葉を交わしてから少しの間名残惜しむようにハクトを見つめていたツバキは、振り切る様に天高く飛びあがって、そして二度と振り返らなかった。リュウも頑張れよーと軽く手を振り、頭上で一回転してみせてからすぐに見えなくなった。竜たちの去るスピードが速すぎて名残を惜しむ暇もなかった。結局大した礼も出来なかったと、ハルは残念に思う。今度この近辺に立ち寄ったら、改めて礼を言いに行ってもいいかもしれない。

「ああっこの愛しい大地よ!何事にも決して揺るがない母なる大地!俺様は究極の優しさを思い知った!」

両手を広げて何事かを叫んでいるヘリオは余程空の旅が恐ろしかったのだろう。このまま地面に向かってキスでもしかねない勢いだ。
地面、そうだ。ハルは思い出した。竜人たちとの別れに気を取られていたが、ハルの目の前には降りる直前に見た謎の植物が広がっている。空から見た時はもう少し狭い範囲だと思っていたが、こうして降り立って同じ目線で見つめてみれば、その植物は結構な広さの地面を覆い尽くしていた。

「さっきから気になってたんだが、これは何だ?」
「おー、そういや俺様も気になってた。何か実が生ってるよね」
「何だ、ちゃんと周りを見る余裕もあったんじゃないかヘリオ」
「ふふん、美と勇気と度胸の申し子と言われた俺様を舐めないでもらいたいねえ。まあ見下ろした瞬間その高さに驚いて一瞬しか見る事が出来なかったんだけどね」
「美と勇気と度胸の欠片もないじゃねーか」
「美はあるよ!少なくとも美は!」

ハルは植物に近づき、身をかがめて顔を近づけてみる。後ろからついてきたカエデも同じように覗き込んできた。植物の葉と葉の間に隠れるように生っている実を、そっと千切る事無く引っ張り出すと、それは掌よりも遥かに小さい可愛らしい赤い実であった。実際に実を近くで見る事が出来たハルは瞬時に植物の正体を知った。

「そうか、キイチゴだな」
「きいちご?」
「ふむ、そのようじゃな。わしは植物に関してそんなに詳しくは無いが、これは恐らくこのあたりに良く群生しておるコバルトラキイチゴじゃ。小ぶりじゃが十分な甘味もある、何よりこのような平地でも平気で実をつけるタフさがうりで周辺の村では積極的に栽培されていると聞く。生で食べるも良し、ジャムにしても良しの万能キイチゴじゃ」
「いや十分詳しいだろそれ」

すらすらと説明してくれるハクトの目線は手に持つ本ではなく小さな可愛らしいキイチゴの実であった。つまり今の内容が例えあの本に書いてあったとしても暗記してあるという事だ。恐るべし魔法使い、恐るべし見た目五歳児。
ハクトの説明を聞いて、ヘリオが背を伸ばして辺りを見回した。

「このあたりなーんも村なんか見当たらないけど、誰か育ててる訳?」
「いや、これは野生じゃろう。人の手で育てられたものはもっと実が大きいはずじゃ。まあ、この大きさでも甘さは十分にあるじゃろう」
「ふーん、そうか。これ生でも食えるのか」

野生のものならば何も遠慮する事は無いと、ハルは一つキイチゴの実を千切った。太陽の光を反射して赤く輝く小さな実は見ているだけでもその瑞々しさがよく分かる。
ふとハルは、ある事を思い出して隣のカエデを見た。

「カエデ、お前そういやジャム好きだったよな」
「ジャム?」
「ほら、パンに塗って食べてた赤い奴だよ」
「ああ、あれか……」

カエデは目を細めてどこか遠くを見た。どうやらジャムの事を思い出しているらしい。しばらくそのまま静止していたカエデは、やがてどこか恍惚とした表情を浮かべて、ごくりと喉を鳴らした。思う存分思い出してから、ハルを見つめてくる。

「……あれは、美味しかった」
「ああ、お前がジャムをたまらなく好きだって事は良く分かった。じゃあこれ、食ってみろよ」

手の中にあったキイチゴをハルが手渡せば、カエデは首を傾げて小さなその実を見つめた。ジャムが好きだという話題からどうしてこれを食べるという事になったのか理解出来ないらしい。しかしハルにすすめらればカエデに断る理由は無いので、そのまま口の中にまるごと放り込んだ。
瞬間、カエデに衝撃が走る。

「……!!」

どうやら想像以上に美味しいものを食べるとカエデは動かなくなってしまうタイプらしい。滅多に見ない驚愕の表情で固まるカエデを眺めた後、ハルも自分で一つ実を齧ってみる。口の中に広がる甘酸っぱい味に、自然と頬が緩んだ。

「うん、確かに甘くて美味い。これがタダで食えるなんてもったいないな」
「お、食べられる?それなら俺様も」
「こいつ俺達が食べるの待ってやがったな、ヘリオのくせに……」
「ふふーん、人類史上最高の奇跡の頭脳を持つ俺様の作戦勝ちだね」

食には微妙にうるさいヘリオも、ひょいとキイチゴを口に入れれば満足そうな笑みを浮かべる。

「ああこれ確かに、まあまあだね。俺様が昔食べた最高級のオオトヨアマオトメイチゴには負けるけど、十分美味いよ」
「ハクトさん、そこのムカつく変態を黙らせる方法を教えてくれ」
「口に息も出来ぬほど大量のキイチゴを詰め込んでやれば良いのではないか?どうやら気に入っているようじゃからの」
「ヒメもチビもひどい!瑞々しいイチゴ畑に良く似合う瑞々しい俺様に嫉妬して!」
「お前にだけは嫉妬なんてしないから安心しろこの馬鹿!」

一通り口喧嘩したあともう一度ハルがカエデを見れば、まだカエデは固まったままだった。今回の衝撃はそんなにも凄まじいのもだったのだろうか。少し心配になって、ハルはその少し高い位置にある肩を軽く叩いた。

「おい、カエデ?大丈夫か?帰ってこれるか?」
「!!」

カエデの肩がびくりと跳ねた。視線がうろうろと彷徨った後、しばらくしてからようやくハルに合わせられる。カエデの顔から驚きの表情はまだ抜けていない。そのままぎゅっと、胸の上で両手を握りしめる。

「ハル……私は死ぬかもしれない……」
「そんなに衝撃受けたのか?!」
「分からない、自分でも何が何だか……しかし、このキイチゴというものを食べた瞬間、私の意識は一瞬のうちにここではないどこか遠い所へ強制的に飛ばされてしまったんだ。そのまま自分の意志とは無関係にふわふわと温かくて明るくて綺麗なまるでハルが描いた絵のような世界から抜け出せなかった……。昔ゴシュジンサマに聞いた事がある、あれはきっと、生き物が死んだら行くというテンゴクという世界だった。私はあの時一瞬死んだんだ、きっと」
「何でキイチゴ食べただけで臨死体験してんだよお前は」

ハルは呆れ半分おかしさ半分で笑ったが、カエデは真剣な表情でまだ地面に無数に生っているキイチゴを見つめている。きっとカエデにとって初めて味わった味で、体験だったのだろう。カエデは甘いものが好物なんだなと心の中のメモにそっと書き綴ったハルは、努めて安心させるように笑いかけた。

「大丈夫だカエデ、これは食べた者を天国に飛ばすような毒なんて入ってないから、別に死にはしない。お前が今味わった感覚の名前、教えてやろうか」
「うん」
「死ぬほど美味かったって事だよ。キイチゴはお前の口に存分に合ったみたいだな」
「美味かった……?これが、美味かった……。こんなに激しい美味かったは、初めて体験した……」

カエデは静かに感動をかみしめているようだった。その間にハルはカエデの手にキイチゴをいくつか握らせてやった。せっかくの野生のキイチゴなのだ、もっと食べなければもったいない。感動しながらもさっそく無意識にキイチゴを口に運び始めるカエデを満足そうに眺めながら、ハルは少し後悔する。少し前、イチゴのジャムに感動していたカエデを見た時に思った事だ。イチゴジャムの作り方をもっと早く学んでおけばよかったと。そうすればここにある大量のタダのキイチゴを使ってジャムを作り、しばらくカエデの食事を幸せなものにしてやれただろうに。
ふとハルは、視界に広がるキイチゴ畑を見渡した。

「……なあ、ハクトさん。少しここで時間もらってもいいか?」
「元々お主の旅じゃ、好きにせい。まあ、半ば予想していた事じゃ、わしは一向に構わん」
「ねえねえヒメ、俺様には?俺様には聞かないの?」
「お前には元々選択権なんてねえよ」
「強制?!ひどい!横暴!痺れる!」

旅の荷物の中からスケッチブックと色鉛筆を取り出し、ハルはイチゴ畑の中を良いアングルを探して歩き始めた。生ものはすぐに駄目になってしまうため、基本的に旅には持ち歩けない。しかし絵ならば腐る事無くずっと手に持って歩ける。今日のこの感動を少しでもカエデに残してやりたくて、ハルはイチゴ畑を描く事にしたのだった。
思い思いにキイチゴを堪能する仲間たちから少し離れて、辺りを見回しながら歩く。その辺に適当に腰を落ち着けて描き始めるか、と考えたその時だった。

「……ん?」

ハルは一瞬、目の端に何か映ったような気がして足を止めた。ここにはハル達以外にイチゴ畑しか見えないはずの平野である。現にさっきまで自分たち以外の人間やその他生き物を見なかった。見渡しが良いので、見逃すはずもない。
それなのに。先ほど覚えた違和感を追いかけるようにゆっくりと首を巡らせたハルは、それを視線の先に捉えていた。良く晴れた空の下、元気に生るキイチゴたちの群れの中に存在する、今までそこにいなかったはずの生き物。ハルは思わず立ち竦んでいた。

「ひ……人?」

ハルの声に答えるようにゆっくりと振り返ったその人物は……何物にも染まらない真っ白な不思議な瞳を細めて、美しく笑った。

第七話 イチゴ畑にて

12/07/22



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