ハルは一瞬、自分が幻を見ているのだと思った。それほど、目の前に現れた人物に信じられない思いでいっぱいだった。まずは、さっきまでその姿に欠片も気付かなかった事。そしてその人物が、今まで見た事も無いような珍しい色をしている事、それらがハルの頭の中を混乱に掻き回しているのだった。
今まで生きてきた中で初めて見た真っ白な瞳と、光の差し加減で赤にも青にも黄色にも、無数の色に変化してしまう幻想的な柔らかい巻き髪。身につけているものも信じられない値段がついたアンティークドールが纏っているような古めかしいゴテゴテした黒いワンピースで、病的なまでに白い肌を際立たせている。正直この世のものとは思えない美しさを持った女であった。まず女が纏う空気が違った。妖精が人間に化けてでもいるのか、それともこの不可思議な空気が生み出す幻か。ハルはしばらく、己の瞳を疑うばかりであった。
のどかなイチゴ畑の一角、そこだけ空間が切り取られたようなしんとした空気の中。無数のイチゴに囲まれ座り込んでいた女が、静かに微笑みながらハルを見つめるだけだったその口を、僅かに動かした。

「こんにちは」
「?!……あ、こ、こんにちは……」

鈴が鳴る様な凛とした声に気を取られたハルは、数秒経ってからようやく挨拶されたのだと気付く体たらくであった。声をかけられるまでこの目は何かしらの幻覚を見ているのではないかと疑っていたので、思わず呆けてしまったのである。返事をしてようやく我に返ったハルは、手に持っていた画材を落としそうになったり無駄にきょろきょろ辺りを見回したりと一人で挙動不審にあたふたしていたが、そんな様子を女は怪訝がる事無く同じ笑顔で見つめるだけだった。
画材をしっかりと持ち直しようやく気を取り直す事が出来たハルは、改めて女に向き直った。まるで今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気を持つ女は、しかしいつまでも消える事無くハルの目の前でじっと座り込んでいる。こうやって対峙し挨拶までしたのだから何か話すべきなのだが、何も浮かんでこない。内心焦るハルだったが、女の方からハルへと話しかけてきた。

「あなたは、旅人さんですか?」
「え?!あ、ああまあ、そうだな」
「あちらの渓谷を越えてきた所でしょうか」
「ま、まあな」
「それならここはちょうど良い休憩場でしょう。人里離れたこのような場所で、まるで険しい道を越えてきた者を労わるように、あるいはこれから挑む者を励ますように生るこの自然の畑は、何と美しい光景でしょうか。私たち人間を常に見守りその胸に抱いてくれる母なる大地の愛を感じますね」
「は、はあ……」

愛おしそうに周りのイチゴたちを見回す女に、ハルは生返事しか返す事が出来なかった。言っている事も唐突でついていけない事もあったが、女が自分の事を「人間」と称する事に違和感を覚えてしまったのである。それほど女は人間では無い別の高尚な生き物なのではないかと思わせる不可思議な空気を持っていた。まずハルは、こんな瞳と髪の色を持った人間を見た事がない。女の頭が動く度、その髪の一本一本が別の宝石で作られているのかと思うぐらい太陽の光の反射できらきらと無数の色に輝く。もしかして立ったまま自分は寝てるのではと思ったハルが自分で自分の頬をつねったほどだった。痛い。

「ところで」

ハルの奇行を気にも留めずに、女が微笑みかけてくる。

「その手に持っているもの……あなたは今から絵を描く所ですか?」
「はっ?!あ、あー、そうだった」
「邪魔をしてしまってすみませんでした。どうぞ、自由にお描き下さい」

そう言って、女は自分の隣を指し示した。……これは、そこに座って絵を描けと言っているのか。正直今すぐ皆の元へ逃げ帰りたい気分のハルだったが、せっかくの美人に隣を許されたのにこのまま踵を返すのも相手に悪いし少しばかりもったいない。しばらく呻きながら躊躇ったハルは、結局女から勧められた地面から少し離れた場所に座り込み、スケッチブックを広げた。女が視界に入らないような場所を描く事に決めて、筆をとる。
そのままイチゴ畑を描き始めたハルだったが、いつもならあっという間に自分の世界に没頭できるのに、いまいち集中出来なかった。もちろん隣でにこにこ笑っている女のせいだ。女は何をするでもなく、一番最初に見た時と変わらない姿勢でハルの様子を見守っているようだった。すごく気になる。
じっと手元を見つめられる視線を感じて、ハルはカエデを思い出していた。カエデももう何度もハルが絵を描く姿を見ているはずだが、決まって隣に陣取り飽きもせずにハルの動く手を眺めるのが常だった。今はイチゴの味に夢中になっているだろう長身の姿を思い出しながら、女に見られないようこっそりため息をつく。こんな事態になるのだったら、カエデを引っ張ってでも連れてくればよかった。
手は変わらず動かしながら、落ち着かない気分のハルは女に話しかけてみることにした。

「……なあ、あんた」
「はい、何でしょうか」
「あんたは何でこんな所にいるんだ。あんたも旅人か?とてもそうは見えないが」
「そうでしょうか?これでも世界の各地を歩き回っているのですが。つまりあなたと同じ、旅人さんという事ですね」
「そ、その姿で?」
「はい、この姿で」

町中を歩くだけで都市伝説になれそうな姿をしていながら、女は平然と頷いた。どうせ根拠のない話だろうとハルが聞き流してきた噂話の中に、各地に現れる虹色の髪を持つ女の話があったのかもしれない。大雑把に畑の緑を塗り込めながら、ハルは横目で女を見た。

「……一人でか?」
「そうですね、ほとんど一人です。お友達や、協力してくれる方はいますが、皆ばらばらに行動しているので」
「強力?」
「私の旅に協力してくれる方たちがいるんです。有難いことですね」

思い出すように女は真っ白な瞳を細め、空を見上げる。旅人仲間という事だろうか。それならハルにもそれなりにいる。仲間というより、その大体がギルドか何かで会ったら情報交換をする顔見知りというレベルであるが。主に一人で旅をしてきたハルにとって、旅仲間がいる今の状態が珍しいぐらいだ。この女もそうなのかもしれない。旅慣れると一人の方が何かと動きやすいのだ。それにしては旅道具も荷物も何も見当たらないのが気になる。

「あなたは、お友達の方と旅をされているようですね」

ハルが赤いイチゴを緑の隙間に描き込む手を一時的に止めて振り返れば、女はさっきハルが歩いてきた方向へ顔を向けていた。カエデ達が思い思いにイチゴ畑に散らばっているのが遠くに見える。こちらには誰も気付いていないようだ。
カエデがまだ突っ立ったままなのが見えて、まだあいつはイチゴを堪能しているのかと笑みを零したハルだったが、ふと女の顔を見て思わず目を見張っていた。先ほどまで柔らかく細められていたはずの瞳は、今一心不乱に何かを見つめていた。その表情は初めて見る真顔であった。思わず視線を辿ってみると、ぼーっと立ったままのカエデに辿り着く。慌てて女に顔を戻したハルが見たのは、さっき見た真剣な表情が夢だと思うほどの温かな笑顔だった。

「仲が良いのですか?」
「……えっ?あ、ああ……まあ、それなりに」
「素晴らしい事です。人は一人では生きていけない存在です。そうやって助け合い手に手を取り合って生きていける存在がいるという事は、大事なことですよ」
「はあ……」
「そうです、人間とはそういう生き物なんです、だからこそひとつひとつの命が尊いのです。光り輝いているのです」

空を見上げて両手を合わせ、瞳を輝かせる女に、ああこの人綺麗だけどノリが苦手だなあとハルは思った。世界の全てを愛しく思っているような女の思考は、世の中そんな綺麗なものばっかりでないと旅を重ねる中で悟ったハルにとって眩しすぎるものだ。しかもこの女は自分で各地を歩き回った上でこの考えなのだからすごい。
そうやってハルがある意味感心していると、女の視線がふと空から地面へと戻ってくる。そうしてぽつりと零された声は、妙に低く聞こえた。

「……ええ、そうです。だからこそ、そんな人間の可能性を潰すような存在は……この世にあってはならないのです」

思わずハルは完全に手を止めていた。女は俯いていて、その表情を見る事は出来ない。ハルの胸にざわざわとした嫌な予感みたいなものが駆けあがってくる。どうしてだろうか、さっきまで無害そうな笑顔を浮かべていたこの女の表情が見えないだけで、こんなにも不安な気持ちになるなんて。今は見えないその顔に、見てはいけないような表情が浮かんでいるのではないか、そんな気分にさせられる。
女はハルの不安をよそに、すぐに笑顔のまま顔を上げてきた。しかしハルの心境の変化がそう見せるのか分からないが、少しだけその笑顔が陰りを帯びているように思えた。

「今すぐ、何でも願いが叶うとしたら、あなたはどうしますか?」
「……は?」
「何でもです。不思議な力であなたの願いが一つだけ何でも叶うとしたら、あなたは何か願いますか?」

ハルの心臓が音を立てて跳ねた。頭の中で、肌身離さず持っている緋色の玉を嫌でも思い浮かべる。普段あまり外には出さないが、少しでも離れるとすぐにハルの手の中に戻ってきてしまうあの宝珠は、もちろん今もハルが身につけているポーチの中に収まっている。外からは、見えないはずだ。
一度ごくりと音を立てて唾を飲み込んだハルは、極力平静を装って口を開く。

「確かに今、どうにかしてほしい問題は抱えているが、それはそんな不思議な力に願うような問題でもないし。俺はこうして自由気ままに絵を描きながら旅をしている今が一番心地よいんだ、急にそんな事言われても思いつかないな」

そうして視線をスケッチブックの上に戻し、何事も無かったかのように絵の続きを描き始める。不自然に見えていないだろうか。女はしばらく沈黙していた。こちらを見つめる女の強い視線を感じながら、ハルはひたすら絵を描いた。あの儚い白い瞳のどこからこんな強い視線が生まれるんだと少々恐怖に思っていると、やがてその視線は静かに消えた。

「……そうですか、あなたはあまり欲のない人なんですね」
「悪いか?」
「いいえ、とても良い事だと思います。世界の人々が皆、あなたのようであれば良いのにと思うくらい」
「おいおい、それはさすがに買いかぶりすぎだろ」
「そんな事ありませんよ、私は本気でそう思います。ですが、欲深いのが人間の性……願う事は罪ではありません。悪いのは、慎ましい人間を欲望に豹変させてしまうような、そんな不思議な力の方なのです」

隣で、女が立ち上がった気配がした。横目で見上げてみれば、最初見た時と同じ笑顔でにこりと微笑まれる。

「エリージュ」
「はい?」
「私の名前です。あなたは?」
「……ハルだ」
「ハルさん。あなたとはまた別な場所で出会える気がします。それまでどうか、お元気で」

ぺこりと頭を下げた女、エリージュは、そのまま背を向けてふわふわと歩き出した。どこか頼りない足取りのままイチゴ畑を抜け出し、そして一度も振り返る事無くそのまま姿を消した。あの虹色の光る頭が瞬きをする度にどんどんと小さくなってそして消えていくまで、ハルはその場に座り込んだまま見送った。見送った後、大量の息をどっと口から吐き出す。
筆を持っていた手がずるりと地面に落ちた。そうして初めてハルは、自分が今までずっと緊張に張りつめていた事に気付いた。

「っはー……何だったんだあの女は……」

見逃された。唐突にハルはそう思った。何に対して、どうしてエリージュに見逃されなければならないのか、具体的な事は何一つ分からなかったが、そう思った。
しばらくその場に座り込んだまま心を落ち着かせていたハルの耳に、こちらへと近づく足音が聞こえてきた。思わずぎくりと固まるが、すぐに届いた声にほっと肩を落とす。それは心からハルの事を心配するような声で、疲れたハルの心へ優しく染み込んでいった。

「ハル!ハル、大丈夫?私が見ていない間に何も無かった?」
「カエデ……」
「ごめんなさい……今までイチゴに夢中になってハルの事を全然見ていなかった……私は守護騎士失格だ……」
「いやまあ、そうなる事を分かっててイチゴをあげたのは俺なんだから、気にすんなよ」

ハルの目の前にしゃがみ込んで落ち込むカエデの頭を撫でて慰めてやりたい衝動に駆られ、それを抑え込みながらハルは笑った。カエデの真っ赤な瞳を見つめているだけで何だか安心するのは何故だろうか。
じっと見つめてくるカエデに、さっきの出来事を言おうと口を開いたハルだったが、少し考えた後やっぱり止めておいた。何故かはわからないが、言わない方が良いと思ったのだ。

「……それに、俺はここで一人絵を描いていただけだ、何にも無かったよ」
「本当?」
「本当、本当。あっそうだカエデ、ちょうどよかった。これもう少しで完成するからちょっと待ってろ」

首を傾げるカエデをその場で待たせて、ハルは急いで目の前の絵を完成させるために腕を動かした。大体はもう先ほどエリージュと一緒にいる時に描いていてしまったので、後は全体的なバランスを見ながら手直しするだけだ。カエデ越しに広がるイチゴ畑とスケッチブックを何度も見比べた後、ハルは手を止めて満足な息を吐く。出来上がりだ。

「これで良し。ほら」
「何?」

イチゴ畑の描かれたページを切り離しカエデに手渡すと、困惑した表情でそれを受け取った。戸惑った瞳は、手渡された絵を見下ろすとすぐに見開いて輝きだす。その変わりようが傍から見ていておかしかった。

「すごい、イチゴだ。この目の前の景色を切りとったみたいにそっくりそのまま……」
「お前な……いつも褒めすぎなんだよ。まあ気に入ったんならよかった。残念ながらイチゴは持ち歩けないから、欲しくなったらせめてそれ見て我慢しろよ」
「……え?」

しばらくカエデは絵とハルを交互に見て固まってしまった。どうやら頭が展開についていけていないようだ。道具を片付けながらカエデが再び動き出すのを待っていれば、ゆっくりと口を開いたのは全てを片付け終えて後は立ち上がる時になってからだった。

「ハル……もしかして、もしかしてこの絵は、私のために?」
「もしかしなくてもそうだよ。時間とちゃんとした画材があればもっとしっかりとしたものを描いてやれたんだが、今回はそれで我慢してくれ」
「……!」

カエデは信じられないという顔でハルと絵を再び凝視する。今までもあげていたのに何をそんなに驚く事があるのかと首を傾げるハルだったが、よく考えれば最初からカエデにあげるために絵を描いたのは初めての事だったかもしれない。驚愕したカエデが何か言う前に、ハルは念を押す事にした。

「ハ……」
「カエデ、言っとくが断るなよ。せっかくお前のために描いたんだ、せいぜい他のあげた絵と一緒に大事にしろ。……いや、別に宝物のように大事にしなくてもいいけどな、頼めばまた描いてやるし」
「……!!」
「カエデ、返事」

じっと睨みつけてやれば、おろおろ視線をさまよわせたカエデは、それでもひどく大切なものを扱うように貰った絵を手に持ちながら、ようやく頷いた。

「分かった。大事にする、とても大事にする。……ハル」
「何だ?」
「前に、ゴシュジンサマにこういう場合なんて言えばいいのか教えて貰った」
「またそいつか……言ってみろ」
「ありがとう」

その時ハルは、カエデが笑ったように見えた。いつも無表情に近い固い顔が、僅かに和らいだような気がしたのだ。感動に目を輝かせたり、驚いたり怒ったりする姿は何度か目にしてきたが、カエデの笑った顔を今まで見た事が無い事にハルはその時初めて気がついた。そのカエデが今、笑ったような気がした。ハルがあげた絵によって。
今度は、ハルが固まる番だった。

「………」
「ハル?」
「あ……え、っと」
「ハル、もしかして今の言葉は適切じゃなかったのか。それじゃあ何と言えば、ハルに感謝の言葉を捧げる事が出来るんだろう」
「いや……いや、それでいい。合ってる」
「それなら良かった」

再び絵を見つめるカエデの顔はいつもの無表情だったが、身体から発せられる雰囲気で喜んでいるのが手に取るように分かる。その姿を見ながら、ハルはほぼ無意識に考えていた。
この、笑う事を知らないような無表情女は、一体どんな絵をあげれば笑う事が出来るだろうかと。

二人が戻ってこない事に痺れを切らしたヘリオとハクトが迎えに来るまでの間。ハルとカエデは真っ赤なイチゴ畑の真ん中に二人で向き合い、しばらく無言で立ち尽くしていた。
そしてハルの頭の中から、七色の髪を持つ女の事が、すっぽりと抜け落ちてしまったのであった。

12/08/13



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