ハルは大勢の人間に注目されることが苦手だ。今までそういう経験が一切無かったためでもあり、それほど注目されるような人間ではないと自負しているためでもあった。だから、まるで一筋の希望を託されたような無数の瞳で己が見つめられる日が来るなどとは夢にも思っていなかった。小一時間向かっていたキャンバスからようやく顔を上げて、静まり返る会場に気づく今日この時までは。
「ふう、何とか制限時間は越えてないよな……って、うおっ?!な、何だ何だ?!」
この場にいる全員が自分を見ている事にようやく気付いたハルは、小さくパニックを起こしたほどだった。しかもただ見つめられているわけではない。そのほとんどが、先ほども述べたように僅かな希望に縋り付くような、期待を含んだ視線だったのだ。ずっと自分の絵に集中していたせいで、会場が今どうなっているのか一切分からない。オロオロと首を巡らせていると、ようやく司会のお兄さんが声をかけてくれた。
「えーっと、君は、ヘリアンサス様と愉快な下僕チームのハル選手、だね」
「あー、そのチーム名、今から変態馬鹿ヘリオと苦労性な仲間たちチームに変えられませんかね。いやどっちにしろ恥ずかしいな……」
「そんなことはどうでもよくて、君、今出来たって言ったよね?もしかして、まだ絵を審査されていないのかな?」
「は?あー、はあ、そうですけど」
頷いた瞬間、司会のお兄さんの表情が一際輝いたのを見てハルはぎょっとする。観客からも、まるで安堵するような溜息が聞こえてきた。一体何なんだ。疑問符を浮かべながら会場を見回していると、不機嫌そうにこちらを見つめる碧眼にぶつかった。ソディだ。
「ソディ、悪いんだが、今何がどうなってるんだ?教えてくれ」
「空気の読めない究極駄目男のハル様のおかげで、繊細なわたくしの虫の居所が急激に悪くなったところですわ」
「訳わかんねえよ!」
「ハムよ、絵の審査はお主で最後じゃ。他のものはもうすでに審査が終わっておる」
「へっ?」
観客たちの一番前で見守っていた仲間たちの中からハクトが教えてくれた状況に、ハルは目が点になる。ギリギリとはいえ、制限時間はまだ訪れていないはずなのにどうして自分が最後だったのだろう。さらに色々尋ねたい気分だったが、周りがそれを許してくれなかった。待ちきれないとばかりに司会のお兄さんが詰め寄ってきたのだ。
「さあハル選手、早く絵の審査を!君の絵は、この優勝がほぼ確定しているソディ選手の作品にどこまで食いつけるかな?!」
「げっ、やっぱりあの絵が優勝候補かよ……俺だってあのインパクトに勝てる気はしないけどよ」
キャンバスを掴み、今一度だけハルは自分の描いた絵を見回す。確かに、ソディのあの世紀末な絵ほどの力はない。しかしそれでも、目の前にある風景はハルの自信作だった。一心不乱に集中して描いたおかげか、完成度は自分なりに高い。思い出に残る赤と、ハルを見つめる真っ直ぐなカエデの赤が合わさって描かれたこの光景は、むしろ自分の中の記憶のものより美しいかもと思うほどだった。ハルは意を決して、キャンバスを自分から観客と審査員へとひっくり返した。
「俺の作品は、これだ!」
「こ、これは!」
いくつもの視線が、ハルの絵に釘づけられる。絵に集中するための一瞬の沈黙、それが一瞬を通り越して長く続いたのはソディと同じであった。しかしその空気は、あの時のように冷たく冷え切った絶望を含んだものではない。目に映るその風景に心を奪われ、思わず感嘆の息が零れ落ちるような、そんな柔らかな空気だった。審査員たちの口からも、戸惑いの言葉が零れ落ちることはなく、素直な感想が飛び出してくる。
「これは、なんと美しい風景だ……」
「一面に広がる赤色が素晴らしく幻想的だ、こんなに無数に群生している場所を私はまだ見たことはないが」
「うーむ、実際にこの目で見てみたいものだ……」
「ハル選手!この絵は一体?」
話を振られて、沢山の視線が再びハルに注がれる。それを恥ずかしく思いながらも、何とか口を開いた。
「え、えーっと、これは見て分かる通り、楓の木、です。俺の実家の傍にはこうやって何本も並んで生えていて、秋になると一斉に色づいてました。その光景が俺は大好きで……今まで色んな場所に旅して回っているけど、やっぱり俺はこの光景が世界で一番綺麗な色だと思うから、それを絵に表現してみました……はい」
頭を掻きながら何とか説明できた。ハルは自分で描いた、キャンバスいっぱいに広がる赤い楓並木を改めて眺める。絵を描いて回るために家を飛び出す前まで、ハルが毎年毎年心を奪われ続けてきた故郷の光景だった。ハルが懐かしい風景を思い浮かべるとき、ずっと住んできた我が家や姉の笑顔と一緒に頭の中に描かれるのがこの楓の木々だ。他のどんな場所の紅葉よりも美しいと感じるのは、ハルの望郷の念が少なからず入っているからだろうが、その想いも含めて、ハルの今持つ力を最大限に込めて描かれた絵だった。
「これは、この絵は審査員にも高評価だ!全てを諦めかけていた我々に、希望が舞い降りました!」
「「おおおーっ!!」」
まるで未曾有の大惨事が起こった後のような重苦しい空気だった会場が今、ハルの絵の登場によって再び活気を取り戻し始めていた。観客だけでなく、何故かソディに負けた他の参加者たちもハルを応援するかのように盛り上がり始めている。司会のお兄さんの声にも張りが戻ってきている。そんな中、一人壇上でふてくされているのはソディだ。
「この空気、解せませんわ。これではまるでわたくしが悪者みたいじゃありませんか。まあ、わたくしの美貌を手に入れるために人々の間で悲しい争いが起こってしまうという小悪魔的な意味であれば間違っていませんけれど」
「お前とヘリオって嗜好は真逆だけど思考はそっくりだよな……っておい!絵の具を投げるな!」
「あんな生ゴミと一緒にされるのは人生最大の屈辱ですわ。口を慎んでくださいませ、ハル様」
「はいはい……」
ソディとハルが話している間にも、審査は進んでいた。やがて話がまとまったようで、審査員全員が納得するように頷き合っている。その中の一人から何事かを耳打ちされた司会のお兄さんが、一際声を張り上げた。
「さあ、全ての絵の審査が終わり、とうとう結果が出たようです!前代未聞の波乱が巻き起こったこの絵画コンテスト、優勝したのはー……!」
水を打ったようにしんと静まり返る会場。誰もが息を飲み奇跡を祈る中、たっぷり時間を取ってから、司会のお兄さんが発表した。
「……優勝は、最後に見事な楓を描いた、ヘリアンサス様と愉快な下僕達チームの、ピンク女王(男)ハル選手です!」
「「うおおおおおー!!!」」
「や、やった……!」
その瞬間、会場は沸きに沸いた。かつてこれほどまでに優勝を喜ばれた絵があっただろうか。人々の熱狂ぶりにビビるハルだったが、優勝できたことへの喜びに両手をぐっと握りしめる。観客を見渡せば、前列で見てくれていた仲間たちの姿がすぐに見つかった。ヘリオは両手を上げて大喜びしていて、ハクトも満足そうに微笑んでくれている。しかしカエデだけがぽかんとハルの方を、正確にはハルの絵を突っ立ったまま見つめていた。その事を疑問に思ったハルだったが、司会のお兄さんに腕を引っ張られて思考を中断させられてしまった。
「いやー、ソディ選手も惜しかったんですけどねー!最初に言った通り個人的な趣味で勝敗が決する場合もありますので!技術的にも迫力的にもソディ選手も負けてはいませんでしたけどね!いやー本当に惜しかった!それではピンクの女王(男)ハル選手、優勝したお気持ちを一言どうぞ!」
「はっ?!あー、はあ、とりあえずこの後、勝手に俺を変な名前で登録しやがったヘリオをボッコボコにしておきます」
「はいありがとうございましたー!この後はとうとう最後の競技です、皆さん心待ちにしておいてください!」
会場はしばらく、無難で綺麗な絵が優勝したことへの安堵や賛美の拍手に包まれた。その中をハルはそそくさと移動して舞台から降りる。注目される事に慣れていない者にとって、こんな大勢の拍手を浴びせられる事もほぼ初めての経験だった。軽く手を振りながら堂々と歩くソディを少しは見習いたいものだ。ああはなりたくないが。
絵画コンテストが終わり移動し始めた観客の間を縫って、ハルは仲間たちの元へ戻った。一歩飛び出して迎えてくれたのはヘリオだった。
「ヒメおめでとう!んで、俺様うっかりヒメの事を全力で応援しちゃったんだけど、よく考えたらここでヒメが負けてくれた方がソディちゃんの奴隷に一歩近づけたなあって今思いついたわけよ。ヒメがソディちゃんの奴隷になれば俺様もおこぼれでついていけそうだしさあ、いやあ、応援し損だったなあ……っぶふうっ?!」
「おーしヘリオ、ちょっくら歯ぁ食いしばれやコラ」
「食いしばる前にまず一発殴るのはひどすぎるでしょ!そんな理不尽な暴力を受けたら俺様……俺様……あっ興奮してきた!」
「黙れこの変態!人の事いつの間にか勝手に変な名前で登録しやがって……。お前マジで覚えてろよ、お前が嫌がるような事考えて絶対報復してやる!」
「はーい、楽しみにしてまーす」
「くっ、こいつ……」
殴りがいのないヘリオとわーわー言い合っていると、腰あたりを軽くぽんと叩かれた。振り返っても誰も見えない。ハッと思い当たって視線を下にずらせば、ふわふわの白い子どもの頭がそこにあった。あまり似合わないサングラスの隙間から見える金色が、満足そうにこちらを見ている。
「よくやったのうハム。あのプレッシャーの中であれだけの集中力を発揮できるとは、さすがのわしも感心させられたぞ」
「は、ハクトさん……!あっありがとう。くうっヘリオがこんなんだからハクトさんの言葉が余計に沁みるなあ」
「ひどいっ今真っ先にヒメの事祝ったの俺様なのに!今回だけなら少なくとも俺様よりカエデ様の方が反応薄いし!」
「カエデ?」
飛び出してきた名前にびっくりして思わずカエデを見た。なんとカエデはまだ壇上に飾られているハルの絵をじっと見つめているようだった。反応が一般人より薄いのはいつもの事だが、途中まであれだけ必死にハルの事を応援してくれていたのにこの呆けっぷりは、さすがにおかしい。怪訝そうなハルの隣で、ハクトも複雑な顔で突っ立ったままのカエデを見る。
「あやつ、先ほどからあの調子なんじゃ。途中まではハルの事を熱心に見ておったはずなんじゃが」
「途中まではって……じゃあいつからあんな風に?」
「そうさなあ、大体、ハムが完成した絵を見せた後からだったと思うがのう」
ハルの絵が完成した後から。それでは、カエデはそれからずっとああやってあの絵ばかりを見つめていたという事か。カエデに何が起こったのか、不安に思いながらハルは歩み寄った。隣に立ってもカエデはハルに気付く様子はない。
「おい、カエデ」
「……!……ハル……」
声をかけても気付かないのではないかと思ったが、幸い一発で反応してくれた。カエデは絵を見つめていた呆然とした顔のままハルを振り返る。
「お前、一体どうしたんだ?もう絵画コンテストは終わってるぞ」
「ハル……私……私は……」
「と、とりあえず落ち着けって。急がなくていい、ゆっくり話せばいいから」
何故だかカエデはひどく混乱しているようだ。落ち着けるように腕を優しく撫でてやれば、どこか強張っていたカエデの表情が徐々に落ち着いてきた、ような気がする。表情自体は無表情のままであったが、ハルにはもうカエデのわずかな表情の動きが読めるようになってきている。パチパチと瞬きしたカエデは、意を決したようにハルへと改めて視線を合わせてきた。
「……ハル、あの絵の事なんだけど」
「あの絵がどうかしたのか?」
「さっき言ってたことは本当なのか?あの絵が……その……「楓の木」って」
「え?……あ、あー、そっか、なるほど」
ハルはカエデが何故驚いていたのか、分かったような気がした。そうして同時に思い出していた。日付的にはそんなに経っていないはずなのに、何故だか遥か昔の事のように思える。
カエデと初めて出会った日。カエデが「カエデ」となった日だ。
「確か、前にも話したよな。俺の故郷に生える、赤く色付く美しい木だって。もしかして、こうやって絵を見るのは初めてだったか?」
「うん……」
「そうか、一番最初に話してやった時も話だけだったのにあんなに驚いてたもんな何故か。それなら絵を見てもっと驚くのも仕方ないか」
ハルは一度カエデから目を反らして、自分で描いた楓の絵を見る。遠目から見ると細部が見えないおかげで余計に実物のように見えて、ちょっぴり誇らしい。カエデに視線を戻せば、記憶の中の美しい楓の赤色に負けないぐらい、美しい緋色と出会う。その目を見て、ハルは笑った。
「そうだカエデ、これが楓の木だ。お前のその目の色とそっくりな、俺の好きな赤い木だ。実物はもっと色鮮やかだぞー、今そんなに驚いてちゃ心臓持たないぞお前」
ハルによって明確な答えを得て、カエデは息を飲んだようだ。そうして再び、信じられないような顔でハルの描いた絵を見る。半分開いた唇は、細かく震えているようにみえた。
「……綺麗だ。怖いほど綺麗な木だ」
「だろ?」
「……カエデ……あの美しい木が、私の……私の名前、だなんて……」
何事かをブツブツ呟き始めている。いっそ絶望しているかのような顔色のカエデに首を傾げていると、後ろから話を聞いていたらしいヘリオとハクトも口を挟んできた。
「へえ!もしかしなくてもカエデ様の名前の由来があれ?っていうかカエデ様の名前はヒメがつけた訳?」
「ああ。だってカエデが名前なんか無いって言いやがるから」
「ふむ、楓か。わしも何度か目にしたことがある。確かに一斉に色付く様は見事じゃった。なるほどのう、だから「カエデ」か……」
納得するように頷いたハクトは、ちらとカエデを見た。その瞳はサングラス越しでも、どこか光ったように感じる。まるで何かを思案するように。
「……カエデがこれほどまでにハルに傾倒する理由がこれで少し分かったのう」
「は?何でだよハクトさん」
「今まで名無しの状態だった所から、良い名前を付けてもらえば誰だって嬉しかろう」
「んー、言われてみれば、そりゃそうか?」
「……嬉、しい?」
カエデが戸惑ったように振り返ってくる。ハクトは安心させるように大きく頷いた。
「左様。カエデ、お主の今のその気持ちは、おそらく「喜び」じゃ。お主は嬉しかったのじゃよ」
「喜び……これが、喜び……これが嬉しい……」
うわ言のように繰り返すカエデはしかし、先ほどまでの混乱は落ち着いたようだ。今初めてその気持ちの名を知ったかのように、覚え込むように呟いている。本当におかしなやつだな、とハルはため息交じりにその姿を見守った。ヘリオとハクトも同じように大人しくその場で待ち続けてくれる。何となく、カエデの邪魔をしてはいけないような気がしたのだ。
気付けば周りにはほとんど人がいなくなっていた。皆どこかへと移動したらしい。そこへ、ハルたちのもとへ近づいてくる足音がひとつ。
「やあ、ハル。絵画コンテストの優勝おめでとう。制限時間いっぱい使って描きあげたあの絵には私も感動させられたよ」
「ああ、マツバか。ありがとう」
もしかしたら今まで話しかけるタイミングを待っていてくれたのかもしれない、そう思わせるほどの律義で堅物という印象のマツバ。立ち尽くすカエデには触れないように、そっとハルへと話しかけてきた。
「君たちもしばらくしたら移動した方がいい。もうじき最後の競技が行われるそうだ」
「えっ、もしかして連絡あったか?俺はカエデに気を取られてて聞いてなかったみたいだ……」
「あー、俺様ちらっと聞こえたよ、何か大声で話してるの。まっ俺様の繊細で形の良いこの耳ではちょっと聞き取れなかったけど」
「使えない変態は黙ってろ」
「ひどい!でもそれがいいっ!」
どうやら係員の案内があって皆移動しているらしい。マツバが話しかけてくれなければ遅れていたかもしれない。今はライバル同士であるが、そこは素直に感謝するべきだろう。
「教えてくれてありがとう。……あー、そういやソディは?」
「先に行ってるよ。今回君に負けたのが悔しかったらしくてね、一人でやたらとブツブツ呟いていたようだ。まあ、彼女の事は気にしないでもいいよ」
「は、はは……後が怖いなそれ……」
気にしないでもいいと言われても気になってしまうのは仕方がないだろう。もし万が一負けてしまえば、ハルは彼女の下僕になってしまうのだから。そうなれば今回の事を根に持って何をされるか分かったものではない。人知れずハルはぶるりと体を震わせた。そうならないように頑張らなければならない。次で最後なのだ。
「えっと、今の所、俺のチームとマツバのチームは同点、だよな」
「ああそうだ。次の競技で勝った方が大会を制するという事だ。ハル、正々堂々、良い戦いにしよう」
「お、おう」
握手を求められて、とっさに握り返す。見た目からもっとごつごつした手触りかと思いきや、意外とマツバの手は繊細で握りやすい。そんな妙なことに感心していると、ふと疑問が沸き起こった。
「なあマツバ」
「何だい?」
「その、最後の競技って一体なんなんだ?もう発表されたのか?」
案内を聞いていなかったのでさっぱりわからない。ハルが尋ねれば、ああと頷いてみせたマツバは、不敵な笑みを浮かべて答えてくれた。
「出発地点に行けばすぐにわかると思うよ。もう乗り物は各チームごとにすでに用意してあるらしいからね」
「……の、乗り物?!」
なんだか、嫌な予感がする。ハルはマツバの手を握りしめる掌に、汗がにじんでいくのを自覚した。
どうやらこの大会の、最後にして最大の嵐が、これから巻き起こりそうだ。
13/08/14
← | □ | →