最早ルールなどに意味は無いのだとハルは確信した。例えこの大会が、この競技が、直接人を傷つけてはならないというルールであっても、ソディはそこを潜り抜けてくるだけなのだ。バランスが悪いはずの荷台の上で見事な仁王立ちに大胆不敵な笑みを浮かべるその顔がそう語っている。実際に行動に起こしてもいる。瑠璃色に美しく輝く大きなスコップによって。
ハルは呆然と呟いた。
「スコップって……武器か?」
「ハムよ、つっこむ所はそこではなかろう」
「分かってるよ!だってソディの奴は守護騎士を武器にしか出来ないものだと……ああもういい、考えない!くそっ卑怯だぞソディ!傷付けちゃいけないってルールなのにこんな妨害方法!」
「ハル様ったら、人聞き悪いですわ。こんなに華奢でいたいけなわたくしにルールを破って非道な事が出来るはずありません!ただほんのちょっとだけ、穴を掘って間接的に可愛らしい妨害をしてみたに過ぎませんわ!」
「あれだけ巨大な穴をいくつも掘っておいて何が可愛らしいだお前!」
何故マツバはあんな殺意ある穴をソディに掘らせてしまったのかとハルは疑問に思ったが、どうやらマツバはバルバルを操る事に集中しているらしく、背後を一切気にしていないようだ。意外と頼りにならない。ヘリオなんかはバルバルを操りながらも口を開く余裕があるというのに。
「ソディちゃーん!俺様はルール関係なく思う存分直接痛めつけていいんだよ!ソディちゃんの欲望のままにそのスコップで俺様の尻を叩いて!ソディちゃんのためなら俺様、誉れ高い気品溢れる世界初の家畜になるからー!」
「お黙りなさいゴミ。家畜以下の価値しかないくせに思い上がりも甚だしいですわよこの人類史上最悪の汚物!」
「うひょーっ!たまらーん!」
「……いや、やっぱり黙って走ってもらった方が何十倍もマシだな……」
不快な光景だが、このままソディがヘリオの相手をしてくれていれば相当楽になる。しかしヘリオ弄りは早々に飽きてしまったようで、すぐにソディはハルへと視線を向けてきた。
「ご安心なさいませハル様、こんな穴ではまだまだ殺せはしませんわ。そうですわね……せいぜい足の骨でも折って穴の底で土まみれになりながら苦しみもがく姿を見ることが出来るぐらいですわね。うふ、ふふふっ」
「想像しながら笑うな変態!ヘリオ、絶対にソディの掘った穴には落ちるなよ!もし落ちやがったら……」
「えっなになに?どんなご褒美くれるの?」
「俺の生涯をかけて無視する」
「うわーん永遠に続く放置プレイなんて嫌だー!」
ヘリオに本気を出させた所で、笑みを浮かべるソディが自らの守護騎士、瑠璃色のスコップを軽々と構える。とうとう来るか。自然と荷台に掴まる手に力を込める。覚悟を決めたハルだったが、穴に落ちる瞬間は訪れなかった。代わりに荷台がぐいっと急激に右に振られたので、そんな衝撃を予想していなかったハルはもうすぐで振り落とされる所だった。幸いカエデが腕を引っ張ってくれて事なきを得る。
「び……っくりした!カエデ、サンキュな。あっハクトさんは大丈夫か?!」
「わしの事は心配いらん」
自分よりも相当軽いハクトだったら今ので吹っ飛ばされているのではと心配したが、ハクトはしっかりと両手で荷台に掴まっていたらしく無事のようである。さすがに今本を読むのは諦めたらしい。踏ん張ってしがみつくその子供姿が何だか可愛い。
安堵の溜息を吐いたハルは、すぐにヘリオへと抗議の目を向ける。
「おいヘリオ、急に曲がるなよ!危ないだろ……っとお?!」
言い終わらない内に左に急な角度で曲がるので、今度はハルも自力で踏ん張った。間髪入れずに再び右へ。荷台はぐらぐらと揺れながら、今の所辛うじて転倒していない。
「ごめんごめーん、でもこの雑木林じゃあこの揺れも仕方ないっしょー!」
「は?雑木林?……って本当だ!」
今まで景色を眺める余裕が無かったが、バルバルレースのコースはいつの間にか、平原に点在する雑木林の一つに続いていたらしい。高く細い木と木の間をぐねぐねと道が続いていて、その急なカーブ通りに走るために左右に揺らされている訳だ。こんなに揺れてはさすがのソディも穴を掘る暇が無いらしく、少し前を走る荷台にしゃがみ込んでいるのが見える。少しほっとしたが、この雑木林がすぐに終わってしまう事は周りの景色を見れば一目瞭然だった。今は一時的な安全地帯に過ぎない。
どうしようかと考えていると、ハルの服の裾がちょんちょんと後ろに引っ張られた。何事かと振り返れば、真剣な真紅の瞳がじっとハルを見つめている。
「ハル、何か投げるものはないか?」
「えっ投げるもの?」
「そう、投げても良いもの。小さくていい。なるべく固くて、出来れば複数。今すぐに」
「い、今すぐって、そんな事言われてもそう都合良く用意出来る訳……そんな魔法みたいな……魔法?」
ハッと目を見開くハルに、カエデが頷く。ハルは慌てて、自分のバックをまさぐった。
そうして雑木林はあっという間に通り過ぎた。平原に続く道は真っ直ぐ伸び、それほど揺れなくなった荷台からようやくソディが顔を出す。手にはまだスコップが握られていた。
「まったくひどい揺れ方でしたわ。マツバ、あなた普段は色々と細かいくせにこういう時だけ大雑把ですのね!もう少し丁寧に操れませんの?」
「すまないな、私もこいつの制御は久しぶりなんだ」
「もう、仕方ありませんわね。まあハル様の苦しむお姿が見られるお楽しみタイムが少し伸びただけに過ぎませんわ。今からでもこれで再び、わたくしの芸術が光る穴を……」
まるで由緒正しき剣を掲げるかのような仰々しい仕草でスコップを持ち上げるソディ。そのまま振り下ろし、バルバルごと落ちてしまう巨大な穴を掘ろうと動き出す、前に、衝撃がスコップを襲った。
「きゃあっ!な、何ですの?!」
思わぬ衝撃にソディはスコップを取り落した。音を立てて地面に落ちた大きなスコップはすぐに視界から見えなくなった、と思った瞬間、ソディの手元に戻っている。ソディはすぐに気付いたようだ。何か小さく固いものがものすごい勢いでスコップにぶつかり、それで取り落してしまった事に。
余裕の笑みを消し、じっとりと睨むソディの視線の先には、ガタゴトと揺れながら後ろを走る荷台の上にすっくと立ち上がり、硬質な小さい何かを手に持つ黒い人影があった。後ろで一つに結んだ長い黒髪を風に流しながら、火のついたような赤い瞳でカエデもソディを睨み付けている。
「カエデさん、今のはあなたですのね。それは何ですの?」
「ハル、これは何?」
「それはビー玉だ、適当に描いたものだけどなっ!」
答えたハルの手には、馴染みのスケッチブックが広がっていた。適当に掴んだいくつかの絵の具を使って、小さな丸が器用に複数描かれている。速攻で描いたわりには光沢が出ているように見えて、本当にビー玉のように描けたと幾分かハルは満足していた。
そう、カエデが手に持っているのはハルが魔法で描いたビー玉であった。魔法を使おうと思いながら描いたのは久しぶりの事だったので上手くいくか不安であったが、見事ぽんぽんと飛び出してきた球体をカエデが手に取りソディに向かって投げつけたという訳だ。ハクトも満足そうに頷いている。
「小さい物体とはいえ、とっさの事だったというのにようやったのう。上出来じゃ」
「そ、そうか?へへ、ハクトさんに褒められると妙に嬉しいな」
「何、今カエデ様が投げつけた奴はヒメが描いたの?へーすごいじゃん!」
「ヘリオはムカつく」
「なんで?!」
喋りながらもハルはまた複数のビー玉を描いた。小さい頃はこのただのガラス玉を宝物のように扱った事もある、思い出深い遊び道具だ。数本の絵の具で描かれたカラフルなそれらを手渡されて、カエデはソディから目を逸らすことなく受け取る。ソディもまた、カエデから目を逸らさなかった。
「カエデさん、あなたこのレースのルールを理解していまして?人を直接傷付けてはいけないという事になっているはずなのですが」
「わかってる、大丈夫。だからお前は狙っていない。その武器……守護騎士を狙って投げているから」
ソディが少しスコップを動かせば、すかさずカエデがビー玉を投げつけて動きを封じる。今度は予期していたためか、ソディも衝撃に取り落とす事は無かった。カエデの狙いは恐ろしく正確で、そして速い。不安定な荷台の上でどうやったらあんな速い玉を投げられるのだろうとハルが不思議に思うほどだ。
実に忌々しそうにソディがチッと、お行儀悪く舌打ちした。
「あなたって意外と薄情者ですのね。このわたくしの武器もあなたと同じ守護騎士だというのに、躊躇いも無くぶつけますの?」
「守護騎士は人間じゃない。生きていない。だから何も問題は無い」
「!っおい、カエデ!」
思わずハルは声を上げていた。カエデの言葉は何の偽りも無い真実であるはずなのだが、それをハルはカエデの口から聞きたくなかった。少なくとも今カエデは人の姿をとっているのだから、なおさらだ。ハルの咎めるような声に、カエデはきょとんと振り返ってくる。どうしてハルに怒られるのか全く分かっていない顔だった。しかし今ハルがカエデの言葉にどう感じたのか、それを説明している暇はない。カエデの気が逸れたのを見計らって、ソディが手を閃かせたのだ。
「っ!」
瞬時に反応したカエデがビー玉を投げる。狙いはやっぱり瑠璃色の守護騎士で、今回も同じ色に命中する。そのまま青色のスコップを弾いて空中に跳ね返り消えていくだけだったはずの魔法のビー玉は、しかし次の瞬間予想していなかった動きを見せる。投げつけられたそれ以上のスピードで、カエデの頬の横すれすれを滑空していったのである。跳ね返されたのだ。それを目で追えたのは、カエデだけだった。
「返された……」
「ふふっわたくしをあまり見くびらないで下さらない?こんなちっぽけな玉でわたくしの動きは封じられません事よ!」
偉そうに胸を張ったソディが掲げている瑠璃色のそれは、スコップではなかった。あの時こちらの意識が逸れた一瞬後にはもう、ソディが青色のバットを握っていたのである。スコップよりは確かに武器っぽいなと、頭の片隅でハルは思った。
ソディの顔には余裕の笑みが戻っていた。小さい少女の体ながら、堂々とバットを掲げてみせるその立ち姿は何故だか雄々しい。
「さあいくらでも来なさい!その全てをわたくしが美しく完璧に打ち返して差し上げますわ!」
「くっ……!」
どこか悔しそうなカエデが連続でビー玉を投げても、ソディはことごとくそれを打ち返していく。カエデが投げるのもソディが打ち返すのもスピードが速すぎて、最早ハルにはビー玉がどこをどう飛んでいるのか目視する事が出来ない。そのいくつかは二人に挟まれる位置にいるヘリオにぶち当たっているようだが、幸せそうな悲鳴しか聞こえないので気にしないことにした。
たまにこちらに飛んでくるビー玉をちょっとずつ頭を動かす事で器用に避けながら、ハクトが興味深そうに頷いている。ちなみにハルにはカエデが完璧にガードしているせいか、ひとつもビー玉は飛んでこない。
「ほう、少々ムキになっているようじゃのう。意外と負けず嫌いという事か。カエデにもそのような感情があるか、面白い」
「んな呑気に観察している場合じゃないだろハクトさん!このままじゃマジで怪我人出るぞ!ただしヘリオを除く!」
「確かに、このまま後ろを走っていては勝てぬしのう。どれ、少々わしも参戦するか」
「……えっ?」
ハクトの手にはいつの間にか分厚い本が開かれていた。ハクトがいつも手に持つそれが毎回同じものなのか、いちいち違うものなのかはハルにとって定かではないが、少なくとも今ハクトがそれを読むために出してきた訳ではない事は明白だった。顔面めがけて飛んできたビー玉を一度ひょいと大きく避けてから、ハクトはまだ幼く短い手を真っ直ぐ前へと伸ばす。
「食らうがよい」
「おいちょっとハクトさん待っ……うわっ?!」
ドカンという爆音と閃光はほぼ同時にやってきた。もし今の雷が遠い地に落ちたものだったなら先に光が、後で音が追いついてくるのが常である。そう、ハクトが腕を伸ばした瞬間現れた雷のような鋭い光はほぼ目の前に現れ、前を走るマツバ達のバルバル車のすぐ傍の地面に突き刺さったのだ。
「くっ、これは!」
「きゃっ!マツバ、いきなりの方向転換はよして下さらない?!バランスを崩してしまいますわ!」
「無茶を言うな、あのままでは穴に落ちてしまう所だったんだぞ」
マツバが辛うじて避けた穴は、ソディが掘ったものには及ばないが結構な深さがあった。ここに足をかければ走るバルバルは簡単に転倒してしまうだろう。なるほど強力そうな魔法だが、これなら直接攻撃していないのでルール違反にはならない。ならないのだが、地面を掘る方法が派手なだけでやっている事はソディとまったく同じである。ハルがじとりと見つめれば、ハクトは澄ました顔で言った。
「目には目を、歯には歯を、という言葉を知っておるか、ハム」
「知ってるよ!でもいいのかこれ!ソディと同じ所まで堕ちていいのか?!」
「わしもそう綺麗な生き物ではないしのう。それに、間接的に、なるべく穏便に、そして簡単で瞬時に出来る妨害といえばこういうのが一番手っ取り早いんじゃ。あのソディという娘、そういう目論見で穴を掘り出したのなら大したものじゃな」
「感心してる場合じゃないって!そりゃ確かにそうかもしれないけど、穴に落ちたらバルバルが怪我するかもしれないだろ」
大してまだ思い入れは無いし正直アンバランスで不気味な見た目をしているバルバルだが、それでもハル達を運ぶために必死に走っているその姿を見ていると、さすがに無暗に傷つけたくはない。ハクトはため息をついた。
「まったく、己の運命が掛かっていると必死になっておきながらこういう時は甘い事を言うものじゃ。仕方ない、方法を変えようぞ」
「えっ、他の妨害方法があるのか?!ならそっちを先にやってくれよ!」
「まあ少々手荒で、しかも規模的にわしらも巻き込まれるじゃろうがな。ではいくぞ」
「は?俺たちも巻き込まれるって、それどういう……」
皆まで聞かなくとも、その瞬間は訪れた。ハルは最初、横から何か柔らかいもので殴りつけられたのだと思った。それぐらいの質量を持った何かが荷台の横からハル達に襲いかかってきたのだ。空気が一瞬のうちに通り過ぎるごうごうという音が耳を叩き、視界が宙を舞う。これ、突風に吹き飛ばされてないか?とハルが思い至ったのは、そうやって空中を移動している最中だった。
13/11/19
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