「ハルっ!」

カエデの叫び声が聞こえるが、少し遠い。少々別の方向へ飛ばされてしまったのかもしれない。突然の強い風に吹き飛ばされ荷台から離れ宙を移動するハルには、最早なす術もなかった。このまま放り出された勢いのまま、地面に激突するのを待つしかない。

「うわあああっ?!」
「ハル、危ない!」

慌てて腕を振り回すハルの視界に現れたのは、深い森を思わせる濃い緑だった。そして次に、強い光を放つ金色の鋭い瞳が飛び込んでくる。長い腕に力強く抱き締められた所で、目の前のそれがマツバである事に気付いた。気付いた時にはハルはもうマツバの腕の中で、あっ意外と柔らかいなどと馬鹿げた事を考えている間に、庇われたまま地面へと滑り落ちていた。
ぎゅっと目を瞑って受け止めた衝撃は、とっさに抱き寄せて下になってくれたマツバのおかげでそれほどでもない。ちょうど近くに飛ばされてきたハルを受け止めてくれたようだ。今はれっきとした敵同士だというのに、何という律義で優しい奴なのだろう。ハルは感謝すると同時に申し訳なさでいっぱいになった。すぐにマツバの上から退こうと思って、体を起こそうとする。

「わっ悪いマツバ!助かった、大丈夫、か……?」

ハルの言葉は中途半端な所でぎこちなく止まる。うつ伏せの上半身を起こそうととっさに伸ばされた右手の平は、マツバの胸の上にある。その手の平が、ハルにとって思いもよらなかったふくらみをしっかりと掴んでいた。そう、ふくらみ。ふくらみがある。胸の上に、ふくらみが。普段は多分服のせいで見た目まったく気づかないようなふくらみが、そこにあった。多分反対側の胸にも。指をちょっと動かすと、柔らかな弾力を持っているのがわずかに分かった。
その柔らかなふくらみが、どういう意味をもつのか。
固まったハルと、固まったマツバの視線が、ゆっくりと合う。しばらくそのまま時が止まったかのように両者地面に倒れたまま見つめ合って、そうして二人同時に、ボンと音が聞こえるような勢いで赤面した。

「っうわーっ!」
「ぎゃーっごめんなさーい!」

バチーンと音を手てハルの頬が引っぱたかれた。ゴロゴロと地面を転がったハルはしかし、怒りよりも戸惑いが次々に浮かんでくる。未だに信じられなかった。だって今まで疑問にも思わなかったのだ。マツバが、男であると。
その戸惑いのままゆるゆるとマツバを見れば、上半身を起こしたマツバは赤面したままどこかバツが悪そうに視線を彷徨わせている。その格好も、端正な顔も、普段の口調も、一見するとやっぱり男にしか思えない。しかし先ほどの手の平の感触が、そうではない事をハルに伝えていた。
そのまま動けないでいると、すぐに目の前に心配そうに歪められた赤い瞳が現れた。もちろんカエデだ。

「ハル!大丈夫?」
「カエデ……」
「こいつ……ハルを叩いた、許さない……!」
「わーっ待て待てカエデ、それは待て!今のは別にいいんだっ!」

マツバを睨み付けるカエデをハルは慌てて止めた。止められたカエデが不思議そうに振り返ってくる。

「何故?」
「えー、今のはな、あー……俺が悪い。完全に俺が悪かった。だから叩かれたのは仕方ないんだ。そもそも助けてもらったのは俺の方だし」
「そう、なのか……?」

納得がいかなそうだったが、それでもハルが止めればカエデはマツバに向かうのをやめてくれた。叩かれた頬を押さえながら、ハルは半信半疑の心のままマツバを見つめる。

「……な、なあ、マツバ。とても失礼な事を言うかもしれないが……俺はその、お前の事をずっと、男だと思っていたんだけど」
「……。ハル、君が今感じたことが、そのまま私の真実だ」

ゆっくりと立ち上がりながらマツバはそう答えた。手の平に感じた弾力を思い出して、ハルは再び顔を赤らめると同時に思わず叫んでいた。

「う、嘘だろっ?!マジでマツバお前、女だったのかよ!」
「あれ、ヒメってば分からなかったの?」
「ああ?!何でお前は知ってる風なんだよヘリオ!」
「やだなー、この世の美しいもの全てに愛を注ぐ現世の慈父とも呼ぶべき俺様が、美人の子が女の子か男の子か分からない訳ないじゃない」

自然とそうなったのか自ら望んでそうなったのか、ソディに両足で踏みつけられた状態でヘリオは得意げに笑う。足元にぐりぐりと力を入れながら、ソディも面白そうに笑っていた。

「まあ、鈍感で激ニブな男の恥のハル様が分からなかったのも無理はありませんわね。マツバは普段から自分が男に見えるように自ら振舞っていましたもの。その方が舐められないから良いとか何とか。女の美の塊であるわたくしからして見ればまったく理解できませんけれど」
「やめてくれ、ソディ。私にとっては自らを偽るこの姿が生きやすかっただけだ。……一人で生きるためには、必要だったんだ」

何かを思い出しながら目を細めるマツバの声は、確かに真実を知った今聞くと男としては若干高めのものだ。最初この声を聞いた時の少しの違和感は間違っていなかったのだ。ぽかんとしていた状態からカエデに持ち上げられてようやく立ち上がったハルを、マツバが複雑そうな表情で見つめてくる。

「だがしかし、別に強固に隠していたわけではない。今のはその、事故、だった訳で……君もそんなに気にしないでくれ、ハル。叩いたのは、悪かった」
「い、いや、知らなかったとはいえ、悪いのは本当俺だから、うん。すみませんでした」

どこかぎこちなく互いに謝る二人にカエデが首を傾げる。何かを察したらしいヘリオがにわかに騒ぎ出した。

「えっ何?今の何?ヒメが何かしでかしたの?まさか、羨ましいラッキー的な何か?何々教えて……ぐふっ!」

しかしそのうっとおしいヘリオを、ソディが瞬時に鳩尾に踵を入れて黙らせる。

「うるさいですわよ虫けら。わたくしの足置きになりたければそのまま口をつぐんでいなさい」
「はいっ!俺様ソディちゃんの足置きになる!誰よりも輝く美しい足置きになるよ!」
「それは、残念ながら今は困るのう。これはチーム戦じゃからの」
「……!」
「ぎゃーっ!」

先ほど地面に穴をあけたものと同じ雷が背後から襲ってきたのを察知してソディは避け、ヘリオが食らった。不意打ちを食らわせたのは本を手に持ったハクトだった。

「チーム戦でなければエムオを遠慮なくお主にくれてやったのじゃが、競技中の今は駄目じゃ。悪いの」
「いいえ、構いませんわ。こんなポンコツわたくしも要りませんもの」
「ううっソディちゃんもチビもひどい……気持ちいい……」

プスプスと煙を上げながらヘリオが戯言をほざいているのを確認して、ハクトはぐるりと辺りを見回した後カエデとハルへ視線を向けてきた。六人の周りには先ほどの風で壊された荷台の残骸が転がっている。バルバル達は無事だったようで、二匹並んで草を食んでいた。

「これでは両者共にバルバル車でゴールは出来ないのう」
「あ、ああ、さすがに荷台がこんな壊れちゃな……ていうか今の風絶対ハクトさんだよな?これ全部ハクトさんのせいだよな?」
「うむうむ、こんなに壊れては荷台は諦めるしかない。そうなればもう、後の方法は一つしかないじゃろう。のうカエデ」
「聞けよっ!何だよ方法は一つって!」
「ハル」
「ん?」

カエデが手招きをしている。何だろうと思いながら目の前に立つと、カエデはガッシと力強くハルの胴を掴んだ。え、と思っている間に、ハルの足は宙に浮く。さっき吹き飛ばされた時の不安定さは一切無く、むしろ安定感があった。カエデの肩に担がれるのは、こんなに安定感があったのか……。

「って!ななな何やってんだカエデー?!」
「ハル、じっとして。落ちてしまう」
「いや俺も落ちたくないけど何だよこれ!どんな状況だよ!」
「大丈夫、ハル」

いつも通りの冷静な声でハルの心を僅かに落ち着かせながら、カエデは言った。

「私がハルとバルバルを担いで、ちゃんとゴールするから」
「それ本気でする気かよおおーっ?!」

ハルが叫んでいる間にバルバルへ歩み寄ったカエデは、その濃い体毛をわし掴んで走り出した。引っ張られたバルバルはぶーぶー鳴きながらも幸い素直に走り出してくれる。もし少しでも嫌がって走らなかったりしたら、カエデはハルと同じようにバルバルの大きな体を担いでいただろう。そこまでの力はきっとあるし、カエデは嘘をつかない、というかつく事を多分知らない。レースが始まる前に言っていた、いざとなったらハルとバルバルを背負って走るという言葉はつまりそういう事だ。まさに今有言実行されているだけなのである。
カエデの正面から肩に担がれたので進行方向に尻を向け、逆の方向に顔を向けるハルの前では、つまりカエデの後ろからは、ハクトとヘリオがそれぞれ一応荷台の残骸を一部手に持ってきちんとついてきている。ハクトはともかくさっきすごい雷を食らったはずのヘリオまでピンピンした様子で走っているのはさすが不死身だ。どんどん小さくなっていく元いた場所では、戸惑った様子のマツバといつも通りのソディが残されているのが見える。

「くっ!まさか本当に走り出すとは……ソディ、私たちも同じようにバルバルを連れて走るぞ!」
「ええ?わたくしに畜生如きと並んで走れと仰るの?そんな屈辱、嫌ですわ」
「ワガママを言っている場合じゃないだろう!くそ、さすがにこのままでは私一人では……!」

言い争っている二人の姿はすぐに見えなくなる。カエデの足は人ひとり担ぎ動物を連れている者にしては随分と早く、景色もどんどんと変わっていった。ハルがハッと気が付いたのは、そうやって走ってしばらく経った後の事だった。

「おっおいカエデ、下ろせ!俺だって一人で走れるから!」
「駄目、ハルは私が連れてゴールさせると言った」
「言ったけど!俺了承してないし!ハクトさんもヘリオも自分で走ってるのに俺だけなんで担がれなきゃいけないんだよ!何一つ怪我もしてないし!」
「ハルはマツバに叩かれた、だから駄目」
「だからあれは俺がマツバの胸触っちゃったせいであっちは悪くないしそもそも頬ぶたれたぐらいで走れない訳ないしいいい!」
「あーやっぱヒメってば胸触っちゃったんだ。いいなー美女の胸に俺様も触りたい。んでもってビンタ百発ぐらい食らいたい」
「………」

下ろせいや下ろさないの押し問答を繰り広げている間にコースをぐるりと一周し、ゴールが近づいてくる。ゴール付近で待っているであろう観客のざわめきまで聞こえ始めてきた。とうとうハルは一度も下ろされる事無くここまで来てしまった。全てを諦めたハルは自らの顔を覆って打ちひしがれている。

「ああ……恥ずかしい……このままゴールとか何の罰ゲームだよ……」
「さっきから何贅沢な愚痴言ってんのヒメ。カエデ様に担がれて周囲の辱めを受けるとか、俺様にとっては羨ましいご褒美でしかないんだけど!」
「喜んでちゃ辱めにもならねえだろお前……俺はこんなの恥ずかしすぎて……なあカエデ、下ろせって」
「駄目」
「うーむ、主人からこんなにも要求されているというのに聞かぬか。少し前には命令されればハムに危険が迫っていようと部屋から出る事すらしなかった奴がのう。いやはや、カエデは本当に興味深い守護騎士じゃ」
「観察してないで俺を助けてくれよ……。……ん?」

覆っていた手の隙間からちらと見えた景色に、ハルは違和感を覚えた。常に後ろを向いている状態だったハルだからこそそれにいち早く気付いた。背後から、何かが猛スピードで近づいてくるのだ。目を凝らしてそれが何なのか察したハルは、驚きの声を上げていた。

「嘘だろ……?!マツバとソディだ!あいつらが追いついてくる!」
「えっソディちゃんたちが?一体どうやって?」
「……なるほど、あれなら追いついてくるのも納得じゃ」

振り返ってすぐにハクトも納得した。なになにと遅れて背後を見たヘリオも、あーはいはいと声を出す。見えたのは、緑の塊だった。

「おーっほっほっほ!お待ちなさーい!このままわたくしを差し置いてゴールするなんて許しませんわよ!」
「本来ならばこいつを使うつもりは無かったんだが、この状況致し方ない……!待てっ!」

ソディとマツバと、そしてバルバルを乗せて低空飛行でこちらへ肉迫してくるその緑の塊は、竜の姿をしていた。しかし身体の大きさは赤竜人のツバキたちよりも一回り以上小柄だ。あのサイズは竜人でも竜でもないと以前ハクトが言っていた、マツバが引きつれている謎の緑の竜である。今までどこにも見当たらなかったが、姿を隠していたのだろう。その滑空速度は、自らの足で走るハル達よりもはるかに速かった。あっという間に近くまで追いすがってくる。
ひたすら前を見て走るカエデが大声で尋ねた。

「ハル!来てるの?」
「ああ来てる!前に見なかったか?マツバが連れてた緑の竜、あれが来てる!やばいぞ、このままじゃ追い越される……!」

ゴールは目前であった。スタート地点だった場所に今度はゴールテープが張られ、周りには大半が村人の観客たちが詰めかけこちらに声援を送ってくれているのがよく聞こえる。しかしこのまま走れば確実にマツバ達に追い越され、先にゴールされてしまうだろう。目の前がゴールだというのに。カエデの肩の上で、ハルは悔しさのあまりぎゅっと拳を握りしめた。これ以上抵抗する術が思いつかなくて、諦めかけていたのだ。
しかし未だまったく諦めていない真紅の瞳があった。走るスピードはそのままに一瞬だけ振り返ったカエデは、しばしの思案の後何かを決心したように口を引き結び、ハルを抱える手に力を込めた。

「カエデ?」

カエデの様子が少し違う事に気付いたハルが声をかけるが、少し遅かった。ハルが気付いた時にはすでに、カエデは行動を起こしていたのだ。

「ハル、先に行って。絶対に手を離さないで」
「は?!え、カエデ?!うわっ!」

ハルの視界が横にぐるりと一回転した。同時に体が宙を移動し、カエデの肩から別の何かの上に腹ばいになった事に気付く。何とも言えないふわふわで柔らかなものに顔面が包まれて一瞬和みかけるが、すぐに我に返った。このもふもふの感触が、バルバルのものである事に気付いたからだ。ハルはいつの間にか、懸命に走るバルバルの背の上に乗っかっていた。前後逆で。
バルバルの不安定な毛皮にしがみついたまま慌てて首を巡らせば、隣を走るカエデと目が合った。

「カエデ?!一体何のつもりだ!」
「私があれを食い止めておくから、大丈夫」
「何、食い止める?!」
「ハル、頑張って」
「いや頑張れって言われても!」
「ふっ!」

息を細く吐き出しながら腕を振りぬき、カエデは目の前のバルバルの尻を渾身の力を込めてぶっ叩いた。鞭を使ってバルバルを走らせていたヘリオから、叩けば走る事を学んだのかなーとか考えている暇などなかった。重そうな体を跳ねさせ、今まで聞いたことのない高い声でブーッと鳴いたバルバルは、まだこんなに早く走れたんだと感心するスピードでゴールへと真っ直ぐ突き進む。カエデはそれを見送る間もなくクルリと向きを変え、駆け出した。ほぼすぐ目の前まで迫っていた緑の竜は、腕を広げて待ち構えるカエデを避けられない。さすがのマツバとソディも驚く中、カエデは真正面から緑の竜を受け止めた。

「カエデーっ!」

バルバルの背に逆向きで乗っていたため全てを見ていたハルが叫ぶ。そのまま跳ね飛ばされてしまうかと思われたカエデの細い体はしかし、その手にしっかりと緑の竜を捕えたまま大地から足も離さず、そのまま地面に深い足の跡をつけながら長い距離を持ちこたえる。緑の竜も懸命に羽ばたくが、女の体のどこからそんな力が出てくるのか、カエデの腕から逃れることは出来なかった。結局十数メートルほどそのままの状態で移動し、確実に竜の勢いが殺される。抗う事も忘れ、思わずマツバも金色の目を見開いてポカンと口を開けていた。

「馬鹿な……人の手でこんな事が出来るはずがない、君は一体何者なんだ……?!」
「アホ面下げて眺めている場合じゃありませんわよマツバ!忌々しい、このっ!」

ソディが瑠璃色の大剣を取り出して振りかぶるが、カエデはすぐさま飛び退いた。ようやく緑の竜は解放されるが、最早全てが遅かった。振り返りゴール地点を確認したカエデが、安心するようにほうっと息をつく。視線の先で、ゴールテープを真ん中で切ったバルバルがハルを乗せたまま、スピードを落とすことが出来ずに草むらへと突っ込んでいる所だった。割れんばかりの大歓声と、とびきり大きな司会のお姉さんの弾んだ声が、普段は静かなはずのルトラ村に響き渡る。

「一番はピンクの髪の選手!ヘリアンサス様と愉快な下僕チームのハル選手です!この瞬間決まりましたっ!優勝です、優勝ー!」


13/11/19



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