黒猫の恩返し



雨が良く降る季節だった。翔太は安物のビニール傘を差し、足元に溜まる水をびしょびしょの靴で蹴り飛ばしながら、雨のカーテンの中を歩いていた。翔太の傘の差し方が悪いのか、制服も肩や袖が若干濡れてしまっていた。いつもこうだった。少しうんざりしながら、これから帰るだけだからまあいいかと諦めてもいた。明日の朝までに乾かなかったら、ドライヤーでも何でも使えば良い。
これ以上ずぶぬれになる前にさっさと帰ろうと足を速めた翔太の目の端にその時、まるで引き止めるかのように何かが映った。翔太は思惑通り足を止めてしまう。少し前にもこうして帰り道に足を止めたような、と考えながら、雨に濡れる景色をきょろきょろと見回してみる。さっきの気になるものは確か、この家と家の細い隙間から見えたような気がした。それは色だった。金色に光る何かだったような、空色に透ける何かだったような、はっきりしない不思議な色だった。傘から少し頭を出して隙間を覗きこんだ翔太は、その正体を知った。

「あ、猫」

思わず声に出した通り、そこには猫がいた。挟まれた家の屋根のお陰か雨粒が落ちてこないその隙間に、蹲る黒い猫が翔太を見上げていたのだ。その瞳は金色で、そして空色だった。二つの色が奇跡のように同居した何とも言えない瞳だった。覗きこむ角度によって金色にも空色にもどっちの色にも見えた。黒猫はその不可思議な瞳で翔太をじっと見つめてくる。黒猫は逃げなかった。人に慣れているのかな、と思ったが、黒猫は首輪をしていないようだった。
翔太は隙間の前にしゃがみ込み、話しかけていた。

「雨宿り中?」

もちろん返事は期待していなかったが、黒猫はそっと目を細めた。それがまるで翔太の言葉を肯定しているかのような錯覚を受けた。翔太は少し楽しくなった。絶対に世話をサボるからと今までペットの類は買ってもらえなかった翔太だったが、基本的に動物は好きだった。犬や猫を飼ってみたいと思う事も少なくなかった。雄二の家では猫を飼っているが、翔太に触られるのを嫌って姿を見るだけで逃げてしまう。だからこんなに至近距離でペットショップ以外の猫と対峙したのは、もしかしたら初めての事かもしれない。

「君、どこかに飼われてるの?」

尋ねてみれば、黒猫はふいと顔を背けた。これはきっと否定しているのだ。翔太はそう思う事にする。黒猫は今雨が届かない所に座っているが、その毛並みは少し濡れているようだった。きっと雨が降ってきてからこの隙間に逃げ込んだのだろう。
黒猫があまりにも動かないので、触らせてくれるかな、と翔太はそっと傘を持っていない手を挙げてみた。途端に黒猫が牽制するように翔太を睨みつけてくる。まるでその瞳を介して、馴れ馴れしく触るんじゃないと言われているような気分だった。翔太はごめんと呟いて、手をひっこめた。少し残念だった。
撫でるのを潔く諦めた翔太をじっと見つめた黒猫は、まるで語りかけるように鳴き声を上げた。

「にゃーん」

猫にしては少し低めの、落ち着く鳴き声だった。翔太には何故だか、この黒猫が翔太に何を言ったのか、分かったような気がした。翔太は慌てて鞄の中やポケットを探る。そうして無事に、今日の給食に出てきた煮干しの入った小さな袋を発見した。翔太は小魚が苦手なので、持って帰って死神にでもあげようと思っていたのだ。

「これでいい?」

煮干しを何個か袋から取り出して掌に置き、その手を翔太が差し出せば、黒猫はのそりと立ち上がり、目の前の掌の匂いを嗅いだ。翔太が内心ドキドキしていれば、黒猫はしばらくしてから、掌の煮干しに齧り付く。翔太の胸は高まった。生まれて初めて猫に手ずから食べ物を食べさせた瞬間だった。黒猫はあっという間に煮干しを食べ終えてしまったので、感動の最中慌てて追加の煮干しを掌に置く。それも黒猫はぺろりと食べた。結局、翔太が持っていた煮干しの袋が空になるまで、黒猫は煮干しを食べ続けた。

「お腹空いてたんだね」

黒猫の食いっぷりに翔太は感心した。先ほど黒猫が鳴いた時、翔太にはこう聞こえたのだ。自分は腹が減っているので、何か食べ物を持っていたら恵んで貰いたいと。この上なく変な話だと翔太も分かっていたのだが、聞こえてしまったものはしょうがない。結果として黒猫は満足そうにぺろぺろと口の周りを舐めているので、これで良かったのだ。
翔太が掌を叩いて汚れを落としている間に、粗方舐め終わった黒猫が再び翔太を見つめてきた。その視線には感謝の気持ちが込められているかのようだった。

「にゃあーん」

礼を言っている。翔太は感じた。だから翔太も笑顔を返した。

「どういたしまして」

黒猫の尻尾がはたりと揺れた。食い物の礼だと言わんばかりに、近づいてきた黒猫が翔太を見上げる。まさか、と思った。黒猫はもしかして、翔太に触らせてやると言っているのではないだろうか。期待を込めた目で見つめれば、黒猫が頷いた、ような気がする。ただ気まぐれに首を動かしただけかもしれないが、黒猫が逃げる様子は無い。それでは遠慮なく、と震える腕を伸ばした翔太は。

「翔太、こんな所で何をしているんだい?」
「わっ!」

背後から掛けられた声によって、訪れるはずだった至福の時間は消え去った。黒猫はその声に驚いたように、素早い動きで隙間の向こう側へと走っていってしまったのだ。黒い小さな背中を見送る事しか出来ずにああっと声を上げた翔太は、恨みを込めた瞳で振り返る。

「死神、何で邪魔したんだよ!」
「ん?何か知らないが取り込み中だったのか、それはすまない事をした」

翔太に声を掛けた人物、死神は、怒る翔太に申し訳なさそうに頭を掻いてみせる。しかしこんな道の端で知り合いがしゃがみ込んでいれば誰だって声を掛けるか、と思い直した翔太は、ばつが悪くなった。今まであの黒猫に夢中だったので意識していなかったが、ハッと気がつけば自分が今までいかに怪しい姿をしていたのか、思い知らされる。立ち上がった翔太は、死神が傘をしていない事に気付いた。死神が手に持っているものは、いつもの大きな鎌だけであった。

「あれ、雨……」
「雨なら少し前にやんだよ。どうやら随分と集中していたみたいだね」

死神が笑う。翔太は恥ずかしくなりながら自分の傘を閉じた。

「だって仕方無いんだ、すごく珍しい事が起こったんだから」
「そうなのか」
「おかげで死神へのお土産が全部食べられたよ」
「それは、その理由を是非とも聞かなければならないね。ぼくへのお土産よりも重要な事とは一体何だったのか」

翔太は死神に、先ほどの黒猫の事を話しながら帰路へついた。そしていかに黒猫へ触れなかった事が悔しかったのか、邪魔をされた恨みも込めて熱く語った。そうしたら死神に、お土産を食べられなかった事がどれだけ残念だったのか、逆に熱く語られたりもした。最終的にまた給食で同じ物が出てきた時は必ず持って帰ると約束を取りつけられた頃、翔太は家に辿り着いた。
名残惜しむように最後に振り返った翔太の視界に、黒猫が現れる事はとうとう無かった。





「少年よ、今日は助かった。腹が減っている所に追い打ちのように雨に降られて、ちょうど参っていた所だったのだ」

どこか威厳を含んだ声が翔太の脳裏に響く。ぼんやりと夢と現実の狭間を漂う翔太の意識の中で、黒く長い尻尾がうねった。

「今の世にも私が語りかける事の出来る人間はいるものだな。何百年という時の中を生きていれば、様々な人間に出会う。君のような心優しい人間にも、性根の腐った悪い人間にもな」

翔太は頭に響く声に反応して、ごろりと寝返りをうった。そこで自分が今寝ているのだと気づく。そうだ、これは夢なのだ。
夢?

「そうだ、君には礼がまだだった。これからしばらくここに留まる予定だから、遠慮なく触ってくれて良い。不思議な友人も出来た事だしな」

夢でも何でも良かった。本人直々に触る許可を貰ったのだ、これは是非触らせて貰わなければならない。もぞもぞと手を動かした翔太は、あれっと思う。触るって、誰の事を触るんだろう。この声の主を?では、この声の主は一体、誰なんだろう。何で自分はこんなにもこの声の主を触りたいと思っているのだろう。
答えの見えない疑問に翔太の意識が浮上した。夢の淵からどんどんと引き戻される。知らずに腕を伸ばした翔太に答えるように、声は笑ったようだった。

「慌てなくても私は逃げないぞ。ゆっくり、目覚めると良い。さあ、」

ぱちりと目を開けた瞬間、翔太には見えたような気がした。満月に浮かぶ、金色と空色の、不思議な瞳を。こちらに語りかける、艶のある黒い猫を。

そうして翔太は、真っ暗な自室で目を覚ました。

「……ゆ、夢?」

ぱちぱち瞬きをする。先ほど見えた色はもう見えなかった。あれは目が覚める間際に見た、夢の欠片だったのだろうか。自分は夢に見るほど、あの黒猫に触れなかったのが悔しかったのだろうか。ベッドから起き上がった翔太が時計を見れば、まだ深夜だった。カーテンの隙間から洩れる月の光が、外が夕方まで降っていた雨が嘘のように晴れた夜空である事を告げている。それを確認してから翔太は、頭上から話し声が聞こえる事に気がついた。

「って、頭上?!」

驚いた翔太は、声の正体を調べるためにとっさに窓へ飛びかかる。翔太の部屋は二階にある。窓から身を乗り出せば、屋根の上に手が届くぐらいだった。落ちないように気をつけながらゆっくりと窓に足を掛け、屋根を覗きこんだ翔太は、真っ黒な瞳と目があった。

「おや、おはよう翔太。でもまだまだおはようの時間では無いよ」
「死神……何してるの……」

翔太は呆れた。翔太の家の屋根に腰かけ空を眺めていたのは、死神だったのだ。夜寝る時間には毎日いなくなると思っていたら、まさかこんな所にいたとは。死神は、そのままだと危ないよと翔太の手を引っ張り上げてくれた。

「何て事は無い、夜空を見上げながら語り合っていた所だよ。もしかして起こしてしまったかい?」
「いや、それで起きた訳じゃないけど……それより、誰と語り合ってたの?まさか星や月と話していたなんて言わないよね」
「それはさすがに遠すぎるな。今日知り合ったばかりなんだけどね、友達になったんだ、彼と」

彼、と死神が指差したのは自分の足元だった。落ちないように屋根につかまりながらしゃがみ込んでいた翔太は、きょとんとして死神の差す方向を見る。途端に飛び込んできたのは、さっき夢の中で見たはずの、金色と空色の瞳だった。

「にゃーん」
「あ!君はさっきの猫!」
「やっぱり君が話していた黒猫は彼の事だったのか。ちょうどこの屋根の上で知り合ったんだ」

尻尾をぱたりと動かして挨拶してきたのは、間違いなくあの黒猫だった。翔太の脳裏に、先ほどの夢が蘇る。これは正夢と言ってもいいのだろうか?
思いがけない再会に喜ぶと同時に、翔太は感心もしていた。死神はもしかして、猫と会話が出来るのだろうか。さっき聞こえた話し声は、きっと死神と黒猫が語り合っていた所だったのだろう。

「すごいな死神、猫と話す事が出来るんだ」
「ああ、何となくな」
「へ?」
「大丈夫、気持ちさえ通じ合っていれば、言葉なんてそんなに重要ではないよ。なあネコババ」
「にゃーん」

何か、色々突っ込み所がありすぎる。翔太は何から言おうか迷いながら、とりあえず月夜の中黒猫に近づいた。黒猫は逃げる事無く、むしろ翔太を受け入れるように親しみを込めた視線を送ってくる。もしかしたら、気のせいなのかもしれないけれど。

「……お礼、貰っていいんだよね?」
「にゃん」

きちんと確認を取ってから、翔太はゆっくりと腕を伸ばした。黒猫は、逃げなかった。

「死神、ネコババって何?」
「彼の呼び名だよ。ぼくが初めて覚えた「ねこ」と付く名なんだ。かっこいいだろう」
「ええーっひどすぎるよ、君もそれでいいの?」
「ふにゃあ」
「ほら嫌そうだよ。やめなよ、きっともっと良い名前があるよ」
「嫌だ、ネコババがいい」
「変な所で頑固だよね死神って……」
「にゃーん」

死神と、黒猫と、そして翔太。何故か今、きちんと三人で会話をしているような気分になってくる。死神は変な奴だ。黒猫は鳴いているだけだ。場所は屋根の上だ。それでも少年は、親しい友人と教室等でそうするように、自然と会話していた。
気持ちが通じ合ってさえいれば。さっきの死神の言葉を思い出し、案外そんなものなのかもしれないなあと、少年は月を見上げた。
抱き上げ撫でた黒猫の身体は、予想以上に柔らかく、温かかった。

11/07/06



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