ようこそ猫の国



今日は帰りのお使いを頼まれる事も無く、居残りをさせられるような事も無く、ごく平和な放課後を手に入れる事が出来た。翔太は雄二と並び歩きながら、帰って遊ぼうか、それとも帰り途中にどこかへ寄るか、のんびりと話しあっている所であった。道の端に黒い影を見つけたのは、そんな時であった。

「あ、コバだ」
「何だって?」

突然立ち止まった翔太に、雄二は一歩遅れて振り返った。そのまま翔太が見つめる視線を追いかければ、翔太がコバと呼んだ生き物がそこにうずくまっているのを発見する。しばらくそれをじっと見つめた後、雄二は翔太に尋ねてきた。

「あの黒猫の事か?」
「うん、そう。この間知り合ったんだ、死神の、えっと、友達?の猫。ネコババのコバ」
「悪い、最後の部分もう一回言ってくれ」
「名前がネコババで、あだ名がコバなんだ」

丸く座り込んだままこちらを見上げている黒猫を指しながらの翔太の説明に、雄二は難しい顔をした。何かをものすごく納得できないといった表情だった。

「どうしてそうなったんだよ……」
「仕方ないじゃないか、死神がネコババって名前を譲らなかったんだから」

翔太は思い出す、あの時の事を。それは、屋根の上で黒猫を存分に撫でさせて貰った時だった。やっぱりいくら考えてもネコババという名前はひどすぎると思ったので、翔太は死神を説得してみせようと頑張ったのだが、やはり死神は譲らなかった。なので、妥協案を出したのだった。
本名はネコババで、別に普段呼ぶ愛称をつけないか、と。

「それでコバか」
「うん、ネコババの真ん中を取ったんだ。死神はそれで納得したし、コバもネコババよりは気に入ったみたいだから、これでいこうかなと」
「へえ」

雄二はそっと黒猫コバに近づいた。コバは翔太が一緒にいるからか、少し警戒した様子ながらも逃げ出す事は無かった。しかししゃがみ込んだ雄二がそっと手を伸ばすと、その金色と空色に光る不思議な瞳でじろりと睨んでくる。

「お、触ると逃げるか?」
「きっと違うよ、黙って触るなって事だよ、ちゃんと頼まないと」
「た、頼む?」

少々戸惑う雄二だったが、翔太の顔が真剣であるのを見て、とりあえずお辞儀をしてみせた。コバはそれを見て動かないままふんと息を漏らす。どうやら許可を得たようだ。戸惑ったまま腕を伸ばした雄二は、コバの頭をぐりぐりと撫でた。

「おお逃げない逃げない。うちのミケは飼い主が撫でようとしても逃げるんだよなあ」
「雄二んちの猫は半分野生化してるじゃん、って、名前タマじゃなかったっけ?」
「うるせえ、猫の名前っつったらミケかタマって相場が決まってるんだから、どっちでもいいんだよ」

適当な雄二の隣にしゃがみ込んで、翔太もコバの柔らかい背中を撫でた。艶のある手触りが心地よい。コバの毛並みは、贔屓目に見なくてもそこら辺のどんな猫よりも美しいものであると翔太は思っている。そしてそれは雄二も同じようだった。

「こいつの毛並みすごくいいな。飼われてるのか?」
「いや、野生みたいだよ、少なくとも今は」
「ふーん、まあ首輪をしていないからな。それにしても良い撫で心地だ」
「そうだね、僕はコバしか撫でた事が無いから、もっと他の猫を撫でてみたいよ」

二人で撫でまくりながら他愛もない話をしていると、おもむろにコバがすくりと立ち上がった。手を離して見守っていると、数歩その場から歩いて、二人を振り返りにゃあと鳴く。翔太と雄二は思わず顔を見合わせた。

「な、何だあいつ」
「さあ……でも、何かまるで、」

ついて来いと、言っているみたいな。

「にゃあん」

コバは鳴いた後数歩歩き、やっぱり二人を振り返ってくる。猫語は分からないし、会話も出来ない、それでもやっぱり、ついて来いと言っているようにしか感じられなかった。馬鹿なそんなまさかと頭を抱える雄二に対して、翔太は最近不思議な出来事に慣れっこになってきていたので、適応するのが早かった。

「行こう、雄二」
「マジで?いや、確かにこの後予定とかはなかったけど」
「コバは悪い奴じゃないし、大丈夫だよ」
「悪い奴とかそういう事じゃなくて……あっおい待てよ!」

さっさとコバの後について歩き出した翔太を、雄二は放っておく事も出来なくて結局追いかけた。コバは二人がついてくるのを確認して、とことこと歩き出す。やはりその姿はどこかへ先導しているようであった。それとも、そうやって感じる方が異常なのだろうか?ふとそんな事も思ったが、今はとりあえず見失うまではついて行きたいと翔太は思った。雄二は呆れながらもそれに付き合った。
コバの歩く道は決して広い道ばかりではない。薄暗い路地だったり、身体を横にして何とか通れる隙間だったり、他人の家の庭だったりした。決して追いつけない早さで歩く事は無いコバを、翔太と雄二は必死に追いかけた。

「おや、二人とも、珍しい所を散歩しているんだね」

肩に鎌を担いだままのんびりと歩いていた死神と遭遇したのは、その追いかけっこの途中であった。

「あ、死神か」
「げっ、死神!」
「やあ翔太、そして友人。一体どうしてこんな所を散歩しているんだい?」

死神と出会ったのはちょうど家と家の間の隙間を通り抜けてきた所であった。少し気まずい。死神から露骨に目を逸らす雄二に代わって翔太が答えた。

「散歩じゃないよ、コバを追いかけていたんだ」
「なるほど、コバか。それなら君たちもどうやら猫の国に誘われたようだね」
「猫の国?」

死神の口から飛び出した言葉に翔太は驚いた。確かに猫はふといなくなっている時猫の国に行っているなどというお話を聞いた事はある。それの事を言っているのだろうか。死神は得意そうに胸を張ってみせている。

「実はぼくも先日コバの招待を受けてね、行った事があるんだ」
「ええっ猫の国に?!」
「ああ、猫が沢山いたよ、素晴らしい空間だった」
「ある訳ないだろ、猫の国なんて」

思わず口走ってしまった雄二は、すぐにしまったという顔をする。案の定、死神が雄二を見つめてきてしまった。この不可思議な男が、雄二は苦手なのだ。

「猫の国が存在しないと思うかい?」
「あ、当たり前だろ!」
「ならばその目で確かめてくればいい、ちょうど君たちはコバに案内されている所なんだからね」

ほら、と死神が指し示した方向には、コバが二人を待っている所だった。金色と空色の瞳を向けて、まるで早くしろと訴えてきているようだった。戸惑う雄二の背中を後押しするかのように、死神が言葉を投げかける。

「それとも猫の国に行くのが怖いのかな?」
「あ、あほか!存在しない国が怖い訳ないだろ!おい、行くぞ翔太」
「え?あ、ちょっと待ってよ雄二!」

まんまと死神の挑発に乗った雄二が駆け出す。待ってましたと動き出すコバに、翔太が慌ててついて行く、前に死神を振り返った。

「雄二をあんまりからかうなよ、あいつ意外と単純な所があるんだからさ」
「ごめんごめん、でもきっと、友人も満足出来るような国がこの先にあると思うよ」

あまりにも自信たっぷりに死神がそんな事を言うので、翔太は期待が膨れ上がるのとは逆に、不安も生まれてきてしまった。もし本当に、猫の国とやらに迷い込んだらどうしよう。

「き、危険な所じゃないよね?」
「大丈夫さ、楽しんでくるといい。ただし、夕飯までには帰ってくるんだよ」

まるで親のような事を言う死神に舌を出してみせてから、翔太もコバ達の後を追いかけた。あれはきっと翔太の母親の真似だろう。言われなくとも、今日の夕飯はエビフライと分かっていたのできちんと帰るつもりだ。……猫の国で、迷わなければ。
すぐにコバと雄二に追いついた翔太は、しばらくそのまま駆け足で町を駆け回る事となった。翔太も雄二も、途中で止めようとか引き返そうとか言い出す事はなかった。駆けた範囲は見慣れた町の中に留まっていたし、死神にあれほど言われてしまっては行かない訳にはいかなかった。二人の中で燃えていたのは最早意地であった。何としてもこの目で猫の国を拝んでやろうという決意だった。
町が、夕暮れに染まりきる時間帯だった。一際入り組んだ路地を抜け、塀を越えた先、家が密集した中心部。寄せ集まった壁と壁の間、奇跡的に出来た空間、そこでコバは足を止めた。

「にゃん」

振り返り、ここだと合図するかのように一声鳴くコバ。息を切らせた二人は同時に辺りを見回した。そして、見た。

「あっ」
「おお……」

思わず声が漏れる。夕陽の眩しいオレンジ色の光に照らされ、夕闇の濃い影が落ちるその空間。そこには、猫がいた。毛づくろいをするもの、伸びをするもの、丸くなっているもの、呑気に寝こけているもの、こちらを警戒するもの、大小様々な猫が、あちこちに存在していた。沢山の猫がそこにいた。長く黒いコバのしっぽが、どうだと言わんばかりにぱたりと揺れる。翔太は答えるように、声にだした。

「猫の国だ」

まさしく、猫の国と言っても過言では無かった。この狭い空間、家猫も野良猫も仲良く集まるこの場所は、猫の国であった。呆然と猫がひしめく有様を眺めていた雄二が、あっと呟く。

「タマだ」

ちょっと太めの、雄二の家で飼われている三毛猫もそこにいた。どうやらミケだかタマだかもこの世界の住人だったようだ。翔太が近くにいた一匹に近づき、頭を撫でてやると、まるで客人を歓迎するかのようににゃあと鳴いた。コバ以外の猫を初めて撫でた瞬間だった。そこで翔太は、ハッとなってコバを見る。

「……もしかして、僕が他の猫も撫でたいって言ったから?」

コバは答えずにあくびをする。何にせよこれで、翔太の悲願は達成された。我が家の猫を抱えながら、雄二がまだやや呆然としたまま言った。

「なあ翔太、俺達は今猫の国にいるのか?」
「僕が想像していたものよりずっと現実的で小規模だけど、猫の国だと思うよ」
「……あの死神野郎に、負けちまった」

がっくりと肩を落とす雄二の手は猫を撫でる事に余念が無い。悔しがりながらも、確かに雄二はこの猫の国に満足しているようだった。翔太はコバの元へ歩き、その頭をそっと撫でた。

「ありがとう」

金色と空色にきらりと光る瞳が、どういたしましてと語っていた。

11/08/13



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