通りすがりは魔女



翔太は今急いでいた。仕掛けていたはずの目覚ましが鳴らなかったからだ。いや、どうやら鳴ったようなのだが、翔太が起きる前に自分で止めてしまっていたらしかったのだ。母親の声で起きた翔太の右手が、目覚ましのボタンをしっかりと押したままだったのだから、間違いは無い。それから慌てて準備をして、朝ごはんもそこそこに家を飛び出したのだった。朝からバタバタする翔太を死神がにやにや眺めていたのがムカついたが、文句を言うのは学校から帰ってきた後、余裕のある時に存分に言おうと心に決める。そうして翔太は、家を飛び出した。
翔太の家から学校までは、普段どおりにゆっくり歩いておよそ30分。では、全力で走りきった場合は……実行した事が今まで無いので確かではないが、その半分の時間で辿り着けるかもしれない。そう願いながら、翔太は走った。とても急いでいたので、ろくに前も見ずに走った。通い慣れた道だ、足の向くままがむしゃらに走っていれば無事に学校に辿り着くと翔太は思っていた。その油断が間違いだった。
車もあまり通らない路地、遅い時間なので他の生徒はほとんど歩いていない、そんな曲がり角。スピードも緩めず、前を確認する事もなく飛び出した翔太と同じように、反対側から飛び出してきた人影があった。その人物と思いっきり衝突する前に、翔太は一瞬時が止まったような錯覚に陥った。「あ、ぶつかる」と思う余裕さえあった。次の瞬間には、お尻から地面に倒れ込んでいたのだが。

「うわあっ!」
「きゃあっ!」

上がったのは翔太の声と、見知らぬ少女の声。ぶつけたお尻の痛さに数秒だけ呻いてから、翔太は顔を上げた。目の前には翔太と同じように尻もちをついた、同じ年ぐらいの少女が蹲っていた。制服も翔太の学校のものであった。同級生かもしれないが、顔を見ても名前を思い出せない。とにかく翔太は立ち上がり、少女に駆け寄った。

「ご、ごめん、急いでいて前をよく見てなかったんだ、大丈夫?」
「いたたた……ううん、私の方こそよく前を見ずに飛んでたから、ごめんなさい!」

少女は腰のあたりを擦ってから、脇に転がっていた箒を手に持って立ち上がった。どうやら大した怪我は無いようだ。ホッと息をついた翔太は、自分が今何故あんなに急いでいたのか、思い出した。

「そうだ、遅刻!」
「へ?あーっそうだった寝坊したんだったわ!私先に行くから!じゃっ!」

翔太の言葉に激しく反応した少女も同じように遅刻したようだ。素早く箒にまたがった少女は、そのまますいっと地面から数十メートル上の宙へ浮かびそのまま飛んで行ってしまった。その後ろ姿を眺めた翔太は、

「ずるいなあ、空を飛ぶなんて」

そうやって独り言を呟いてから、自分も遅れないように駆け出す。さっきの少女、何かがおかしいと翔太が初めて気付くのは、学校の正門の中へギリギリ滑り込む事が出来た後であった。

「……あの子、空を飛んだ……?!」




「ちょーっと待った―!」

翔太がそうやって呼び止められたのは、学校の帰り道。雄二と別れて家までもうすぐの、他に人気が無い小さな公園の前だった。その声に聴き覚えがあった翔太がハッと顔を上げると、公園の中央で仁王立ちのまま翔太を見つめる少女の姿があった。間違いなく、朝ぶつかったあの少女だ。少女は翔太に向かって、大きく手を振っていた。

「あなた、今朝私とぶつかった子で間違いないわね?」
「う、うん、そうだけど」
「ちょっと話があるの、こっちに来て、早く!」

少女があまりに必死な様子で呼ぶので、翔太は慌てて公園の中へ足を踏み入れた。女の子から呼び止められるという経験があまり無いので、少しドキドキする。何だか嫌な予感がする事を無視すれば、だ。

「どうしたの?君、同じ学校だよね、用があるなら休み時間とかにでも声を掛けてくれればよかったのに」

実際、翔太は今日校内で少女の姿を見かけていた。向こうも翔太と目が合ったりしたので、気付いていない訳は無い。ちなみにその時視線はすぐに逸らされてしまったが。少女はどこか気まずそうにもじもじしている。

「学校で声を掛けたら目立つじゃない!だからわざわざ、こうしてあなたが通るだろうって道を探して、待ち伏せてたんだから」

トントンと少女が足で地面を差す。確かにこの公園は、翔太と少女がぶつかった場所からそう離れてはいない。相変わらず良い予感はしないままだが、同年代の女の子にこんな事を言われて気にならない男はいてもごく少数だろう。もちろん翔太もさらにドキドキしてしまい、居心地悪そうに身じろぎした。

「えっと、それで話って……?」
「……見たでしょ」
「へっ?」

突然尋ねられて首を傾げる翔太。少女は脇に置いてあった箒を手に取って、翔太に突きつけた。

「私が箒に乗って空飛んでる所、見たでしょ!」
「……ああー」

翔太は納得した。確かに見た。少女が学校に遅刻しないように慌てて箒に跨って宙を飛んで行ったのをこの目でばっちり見た。翔太が頷くと、少女はやっぱりと呟いてから、パチンと音を立てて手を合わせ、翔太に拝み始める。

「お願い、この事は黙ってて!私が魔女だってバレたらいけない事になってるの!」
「君、魔女なの?」
「そうっ!今は正体を隠しながら普通の学校に通ってるの、魔法学校のちょっとした試験みたいなもので……だからお願い!」
「それなら、分かったよ。どうせ言っても誰も信じないだろうし」

素直に頷く翔太を、少女はぽかんとした表情で見つめてきた。少女の訴えを承諾したというのに、何故そんなに驚いた顔をするのだろうか。翔太がどうやって声を掛けようか迷っているうちに、どうやら立ち直ったらしい少女が今度は怪訝な表情で翔太を見てきた。

「あなたこそ、信じるの?私の話」
「魔女なんでしょ?」
「そうだけど、いきなり魔女って言われて信じる?普通」
「実際に空を飛んだ場面を見たんだし、ああそうなんだーって思ったんだけど」
「おかしいわあなた!」

何故か少女は翔太に指を突きつけてきた。翔太は納得がいかないが、少女はもっと納得がいかない顔をしていた。

「普通の人なら例え私が空を飛ぶ姿を見ても、夢か幻を見たんだって思うはず!だって普通なら魔女が存在するなんて、思うはずないもの!」
「そんな事言われても……」

せっかく魔女を信じてあげているのに、当の魔女がその存在を否定してくる。翔太は困り果てた。何と言えばこの少女は納得してくれるのだろうか。何と説明しようか考え込んだ翔太の頭に、あの大きな鎌を持った黒い存在が思い浮かぶ。

「実は僕、君と同じような存在を見た事あるんだ。だから慣れているというか」
「私と同じような存在?!それって、魔女って事?」
「ううん違うよ、死神だよ」

翔太の言葉に、少女は驚いて一歩後ろに下がってしまった。

「しっ死神?!私でさえ会った事が無い存在に、何であなた会った事があるの?!」
「死神ってそんなに珍しい生き物だったんだ……」

もちろん死神という存在がその辺にいる訳が無いと翔太も分かっているが、同じように珍しい存在の魔女がさらに会った事が無いと言うのだから、死神と言うのはとても貴重な存在なのかもしれない。もしかしたら自分はとても幸運だったのかなとうっすら思った翔太の事を、少女はようやく納得してくれたようだ。その表情が、不安そうなものから安心したものに変わる。

「ああ良かった、学校についてからあなたに見られた事に気づいて、この世の終わりかと思ったもの。死神を見た事があるあなたなら、大丈夫ね」
「見た事があるというか、見慣れたというか」
「……むしろ、私を魔女だって一度も否定せずに認めてくれた人って、あなただけかも……何か、何かこれって、運命の出会いのような気もしてきた……!」

そして安堵の表情から、少女の顔はどこか恍惚としたものに変わっていった。翔太を見つめる瞳が心なしか潤んでいる気もする。唐突な少女の変わりようにまったくついて行けない翔太は、キョトンと立ちつくす事しか出来なかった。

「あ、あのー」
「私は恋中アイ!アイって呼んでもいいよ!あなたは?」
「え?!あっえっと、僕は星野翔太、だけど」
「星野翔太!翔太君って呼んでもいい?!」
「い、いいよ」

いきなり詰め寄ってくる少女、アイに押されるように何とか答える翔太。翔太の名前を聞きだす事に成功したアイは大げさな身振りで箒を手にくるくると回り、夢心地の様子で虚空を見つめる。完全に別世界に行ってしまったようだ。

「よく考えたら登校途中に曲がり角で男女がぶつかり合うって、恋が始まる黄金パターンじゃない?ああどうしよう!魔女としての修行のためにこの学校にやってきたのに、こんなあっという間に恋に落ちてしまうなんて!一体私はどうしたらいいの!」
「ふ、普通に修行すればいいと思うよ」
「翔太君!」
「はい?!」

どこかへ意識を飛ばしていたと思ったアイは、急に翔太の正面へとやってきた。その瞳の中には、何かが燃え上がっているのが翔太にもはっきりと分かった。何に燃え上がっているのかは、あまり考えたくはないが。

「こんな魔女っ子な私だけど、お友達になってくれない?魔女だってばれないように気をつけているせいで、友達と呼べる人が私少なくて……」
「友達、なら別に良いよ」
「本当?!ありがとう!よっしゃ、これで第一歩を無事に踏みだしたわ!いける!このまま突き進めば!」
「えーっと、本当に友達、だけだよね?」

手を挙げる翔太の話を、最早アイは聞いていないようだ。脳内に広がる大きな未来の設計図を好き勝手に思い描いているようだった。まさかこんなに変な子だとは思っていなかった翔太は、さっそく友達になったのを少しだけ後悔し始める。

「あ、ああそうだ、僕早く帰らないといけないんだったー。えーっと、そう、死神におやつのプリンを買ってきてくれって頼まれてたんだ。だから今日の所は僕はこの辺で……」
「……死神?」

何とか誤魔化してこの場から去ろうとした翔太だったが、そんな翔太の言葉にアイは反応した。とっさに出てきた死神の名が、引っかかったようだ。

「そういえばさっきも見慣れてるって言ってたけど……その死神と翔太君って、友達か何か?」
「友達……なのかな。それよりも居候って言葉の方がしっくりくる気がする。毎日部屋に上がり込んで勝手に漫画読んだりしてるし」
「居候?!」

その時アイの身体に電撃が走った。もしここが漫画の世界ならば、アイの頭の上にはガーンという古典的な効果音が浮かんでいるであろう固まり具合だった。固まった喉を無理矢理動かしたような声で、アイが尋ねる。

「居候って、まさか翔太君、その死神と……一緒に住んでいるの?」
「うーん、実質そうなるかな?」

一応肯定した翔太に、またしばらくアイは固まった。翔太がこの場からどうやって逃げ出そうと考えている間、やがて固まっていたアイの思考が動き出したようで、ゆっくりと腕を振り上げ、

「ライバルね!」

吠えた。翔太がポカンとしている間に、アイの想像というか妄想はどんどんと進化していく。

「相手はもう同棲までこぎつけているなんて!まさしく不利だわ!でも……恋って障害のある方がより燃え上がるって昔から言うものね、私諦めない!昔から密かに調べていた惚れ薬の本格的な研究が必要だわ、ついでに魔法学校の課題もこれでクリアしちゃえばいいし!よーしそうと決まったらさっそく家に帰って材料集めよ!」

公園の中をうろうろ歩きまわりながら一人で話を進めてしまったアイは、箒に跨った。そして最後に翔太の方を見て、

「翔太君、見ててね!私もその死神なんかに負けないように、魔女の魅力をうんと教え込んであげるから!じゃあね!」

ひらひらと手を振った後、あっという間に周辺の家の屋根よりも高く飛んで、どこかへ猛スピードで飛んで行ってしまった。あまりに速かったので、翔太が一瞬今までの事は夢だったのではないかと思ったほどだった。思わず頬をつねった翔太は、ここが現実だという事実を突きつけられる。

「……まさか、死神と同じかそれ以上の変な人が存在するなんて……」

呆然とつぶやいた翔太は、とりあえず今は家に帰る事にした。帰って、きっとゴロゴロしているであろう死神を、一発叩いてやるのだ。あの少女の正体が何であれ、こんなおかしな出会いの始まりは、まず間違いなく死神からだと分かっているからだ。

「くそーっ、死神覚えてろよー」

顔も知らない少女にライバル認定をされ、翔太から理不尽に恨まれるという事に、翔太の部屋で漫画を読みふける死神が知るはずもなく。

「はっくしゅん、……おや、風邪かな。こうなったら特別なロイヤルプリンを食べて精をつけなければならないな、うん。今度翔太に買ってもらおう」

今はただ、呑気に鼻をすするだけなのであった。

11/09/30



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