シッケキンギョの誕生



空は曇天。気温は少々低めにもかかわらず汗をかく程暑苦しいと思うのは、この湿度のせいだろう。最早息苦しいとさえ翔太は思った。今すぐ雨が降り出してもおかしくないほどの天気の下、だらだらと力無い足取りで翔太は帰路についていた。

「ただいまー……うっ」

玄関の扉を開けて一歩前に踏み出した翔太は、思わずしかめっ面を作っていた。締めきられた家の中は外よりもじめじめとした空気が漂っている。今すぐにでもこの湿気をどこかに吹き飛ばしたい気分だったが、残念ながら翔太の家に除湿機というものは存在せず、エアコンもまだつけることを許されていなかった。せいぜい窓を開けてうちわか何かで仰ぐ事しか出来ない。いくら自分の手で頑張っても湿気を消す事は出来ない事を知っている翔太は、それを可能にする文明の利器、所謂機械は何て素晴らしいものなのだろうと感心する。同時に今それらを使えない現実が、ただただ残念でならなかった。
二階の自分の部屋に上がる前に一階のリビングの部屋へ足を向けた翔太は、そういえば死神はどうしているだろうと考えた。両親はもっと遅い時間にならないと帰ってこないが、玄関の鍵は開いたままだった。つまり誰かいるという事だ。その誰かとは、ほぼこの星野家に居候している死神以外に存在しない訳で。

「おーい、死神ー」

何となく名前を呼びながらリビングに足を踏み入れる。一瞬二階にいるかもしれないと考えたが、すぐに壁に立てかけてある大きな鎌を見つけた。死神はさすが死神なだけあってこの鎌を置いてどこかに行く事はない。ほどなくして、ソファに沈む黒い人影を発見した。

「ああ、いたいた。こんな所で何やって……」

話しかけながらソファの背面越しに死神を覗きこんだ翔太は、思わず途中で言葉を切ってしまった。驚いたのだ。ソファに仰向けに寝転がる死神が、どこか苦しそうに喉元を抑えて口をぱくぱく開けて喘いでいたのだから。

「し、死神、どうしたの?」
「あ……ああ、翔太か、おかえり」
「ただいま、じゃないよ。何でそんなに苦しそうなんだよ、風邪?」

ただの風邪でこんなに苦しむのも変だが他に翔太は心当たりが思いつかなかった。死神は翔太の問いに首を横に振って、微かに震える手を空中へ伸ばした。

「今日は息苦しくないかい?」
「息苦しい?」
「ああ。いつもより空気がとても重く、湿っぽくて、何だか息がしにくい気がする」
「それは、今日は湿度が高いからじゃないかな」

なるほど湿度か、と分かったのか分からないのを誤魔化したのか曖昧に頷いた死神は、ようやくソファから身を起こす。

「こんなに湿っぽくて息苦しいと、まるで水の中にいるような気分になってね」
「家の中なのに?」
「うん、それで自分が水の中にいる想像をしていたら、どんどんと息が苦しくなってきて」
「死神……想像力が豊かすぎるよ……」

さっきやたらと苦しそうにしていた下らない原因が判明した。呆れた勢いで鞄を放り投げると、翔太はソファにもたれかかるように床に座り込む。今の話のせいかこの湿度のせいか、最早自分の部屋に帰る気力さえ奪われてしまった。

「おや、君も溺れてきたかな?」
「違うよ、人は想像だけで溺れたりしないし」
「それはどうかな。思い込みという力は侮れないよ。確かに想像には現実を変える力は無いかもしれないが、自分の内面を変える力はあると思うんだ」
「自分の内面?」

どういう意味だろうと視線を送れば、にっこり笑った死神が両手を広げた。

「きっとちょっとした思い込みで、湿度のせいで参っているこの心が少しでも楽になるよ」
「えー、嘘だ。だって何をどう思ってもこの湿度は変わらないだろ?」
「そうだよ。だからこそ、自分の気分を変えるのさ」

阿呆らしい、今現実に気を滅入らせている原因である湿度を変えずに気分を変える事なんてどうやって出来るものか、と、翔太は完全に死神を馬鹿にしていた。死神はそんな翔太の様子に構う事無く一人で楽しそうに話し始める。

「例えばそうだな、今こうして息苦しいほどの湿気で満たされたこの部屋が水の中だとする。水の中には一体何がいると思う?」
「何がいるって……水の中なら、魚か何かじゃない?」
「魚か、なるほど。確かに水中なら、この部屋の中を魚が泳ぎ回っていてもおかしくないね」

適当に答えた翔太の言葉を真面目に受け止める死神。死神の視線はまるで本当に周りを何かが泳いでいるかのように空中を行ったり来たりしていた。何て馬鹿らしいんだと思いながら、思わず翔太も何も無いはずの空中に視線を巡らせていた。

「一体どんな魚が泳いでいるんだろうね」
「どんな魚でもいいだろ」
「そうだね、想像なんだからどんな魚が泳いでも良い。でもこの部屋は狭いから、この部屋を泳げるような大きさとスピードでなければいけないな。出来れば見た目も美しかったり可愛かったりした方が、見栄えが良さそうだ」

あれがいいかな、それともこんなのがいいかな、死神の頭の中には次々と色んな魚が浮かび上がっているらしい。暇なので翔太も考えてみた。そんなに魚の種類に詳しい訳でもないので、思い浮かぶのはオーソドックスな魚たちばかりだ。
この部屋で生きた魚を見る機会というのは、実はそんなに無い。食卓時に出てくる魚たちはどれも今すぐに食べられるように調理された切り身ばかりだし、生きた姿そのままの魚なんてこの部屋の中では、おそらくテレビの中でしか見た事がないだろう。金魚でも飼っていれば話は違っただろうが。
金魚。翔太の頭の中に、ペットショップで眺めたひらひらの尻尾達が思い浮かぶ。

「金魚なんかちょうどいいかもね、家の中だし」
「おお、金魚か。優雅に静かに部屋の中を泳ぎ回る金魚、いいね」

せっかくだからこのぐらいの大きさかな、と死神は両手を自分の顔の横に広げた。そんなに大きな金魚は見た事が無い。人の顔よりも大きな金魚が数匹翔太の頭の中で泳ぎ回り始める。色は黒だ。全身黒づくめの死神が目の前にいるせいだろうか。色は黒でも、ひらひらと空中に舞う美しい尻尾やひれのお陰で見た目もどこか鮮やかだった。

「何という金魚だろう」
「普通の金魚とは違うの?」
「当り前さ、湿気の多い日にだけ姿を見せて宙を泳ぐ貴重な金魚だよ。うーん、分かりやすくシッケキンギョかな?」
「うわあ何それ、そのまんまじゃん」

思わず翔太は吹き出した。翔太が息を吹くと空気も揺れ動くので、黒くて大きいシッケキンギョも流されるようにくるりと一回転する。湿気があればあるだけ元気になるシッケキンギョ。きっと翔太たちが息苦しく、べたつく汗に不快になればなるだけこのシッケキンギョたちは喜ぶのだ。何だかシッケキンギョが憎らしく思えてきた翔太に、死神は質問を重ねる。

「それじゃあシッケキンギョは何を食べて生きているんだろう」
「主食って事?」
「そうさ、生物はすべからく何かを食べて生きている。シッケキンギョにも好物があるはずだよ」
「プリンか何かでいいんじゃない?」
「それは駄目だ絶対駄目だ」

翔太の提案に死神が即座に首を振る。この重苦しい空気の中死神とシッケキンギョのプリン争奪戦が始まってしまうととてもうっとおしい事になるので、翔太もそれ以上は言わなかった。代わりにシッケキンギョの好物を考える。

「金魚って何食べるんだっけ。金魚のえさ?」
「もちろんシッケキンギョは珍しい金魚だから変わったものを食べるんだろうね。この季節溢れかえっている、シッケキンギョが食べてぼくらが助かるものとか」
「そんな都合のいい事あるの?」
「あるさ、想像だからね」

なるほどと納得して改めて翔太は空想する。黒色の身体を優雅に空中に踊らせ泳ぐシッケキンギョ。湿気の多い今日みたいな日に多く存在し、シッケキンギョに是非食べて貰いたいもの。そんなものがあるだろうか。
そこでぽんと、翔太の頭に思い浮かんだものがあった。その考えをそのまま言葉に乗せてみる。

「気持ちだ」
「ほう?」
「この、湿気にうんざりする憂鬱な気持ちを食べてくれれば、僕はとても助かる」

翔太の提案に、それだと死神が手を叩いた。

「シッケキンギョは人間の湿気に対する憂鬱な気持ちを食べる。だから餌が豊富なこの湿気の多い日に現れるんだね」
「便利な金魚だなあ」
「そうだね、とても便利だ。今まさに、シッケキンギョはぼくたちの重苦しい気持ちを食べてくれているんだ。シッケキンギョ様様って所だね」

つんつんと、翔太は頭に微かな衝撃が与えられた錯覚を起こした。シッケキンギョが口で翔太の頭をつついて、憂鬱な気持ちを食べてくれているのだろう。死神の頭にもひらひらと泳ぎながらつんつん突く黒い魚が取りついているように見える。ああやって人間の心を食べて、お腹一杯になり、湿気が下がったらシッケキンギョはどこかへ姿を消すのだ。この時期この湿度の時にしか見られない、貴重な金魚。それらが今翔太と死神の周りを優雅に泳いでいる。翔太は思わずひらひらの尻尾を追いかけて手を伸ばした。

「どうだい、翔太」

シッケキンギョに頭をつつかれたまま、死神は笑った。

「思い込みの力というものは、案外馬鹿に出来ないものだろう?」

金魚の尻尾を取り逃した手で宙を掴み、はっと目を見開いた翔太はばつが悪そうに視線を逸らした。してやったりと笑みを浮かべる死神にムカつきながら何も言い返せず、シッケキンギョを頭にまとわりつかせたまま大きなため息をつく。
まさに今。シッケキンギョを生み出した翔太の頭の中からこの高い湿度に対するじめじめとした気持ちは、まるごと食われてしまったかのように消えてしまっていたのだった。

「……ああ、本当だね。自分で自分が恐ろしくなるよ」

また目の前を横切ったシッケキンギョが一匹、翔太の息に押されてくるりと宙を回転した。このシッケキンギョ達はきっとこれからも、今日みたいな湿度の日に翔太の頭の中に現れるのだろう。シッケキンギョたちの好物を食べるために。

12/06/20



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